『行き止まりの世界に生まれて』と『mid90s』

 なぜかスケボー・カルチャーをテーマにした映画がたて続けに上映されている。
 『mid90s』は、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』や『マネーボール』に出てたジョナ・ヒルの初監督作品で、主演は『ルイスと不思議な時計』のサニー・サジック。その兄に『マンチェスター・バイ・ザ・シー』、『スリー・ビルボード』、『ベン・イズ・バック』のルーカス・ヘッジス。
 ところで、いつかのついでに書いておこうと思っていたことをここに書いておくと、ルーカス・ヘッジスが演じた『ベン・イズ・バック』の主人公ベンが薬物依存になった原因は、医師が怪我の鎮痛剤として処方した薬物のせいという設定だった。この映画を観た当時は、なんだかとってつけたような設定だなと思っていたのだけれど、あの映画でベンが処方されたオピオイドという薬は、強い依存性があるにもかかわらず、製薬会社と医師の癒着によって、それを隠して処方されたために、多数の薬物依存患者を生み出した、アメリカで現にあった社会問題なんだった。
 映画の中でやりすぎに見えた設定が実はプレーンな事実だったことを後で知って愕然とした。
 さて、『mid90s』は、そんなふうに劇映画なんだが、ビン・リュー監督の『行き止まりの世界に生まれて』は、こちらも初監督作品だが、ドキュメンタリー映画。であるにもかかわらず、この二つの映画は、何故かとても似た印象を受ける。特に、登場人物のまとっている雰囲気がとてもよく似ている。
 それで、これはもしかしたらジョナ・ヒルが「やっちゃった」のかなと思い、もうちょい突っ込んで背景を探ってみると、『mid90s』の方も、フィクションであるものの、ジョナ・ヒル自身の実体験がかなり反映されているそうだ。処女作は自伝的になりがちだし。
 それよりもっと驚いたのは、『行き止まりの世界に生まれて』の主役のひとりであるキアーは、監督のビンと古い付き合いではないそうだ。もうひとりの主役ザックとビン監督は、明らかに幼なじみのようだけれども、キアーも子供の頃の映像があるので、当然同じようにスケート仲間だったんだろうと想像していた。
 そうではなくて、キアーとビン監督は、この映画を撮り始めてからの付き合いなのだそうだ。キアーの子供の頃の映像は、ビン監督が素人のころから撮りためていた膨大な量のスケボー動画の中にたまたま映り込んでいた。
 だから、『行き止まりの世界に生まれて』は、ビン監督が少年時代をすごしたイリノイ州ロックフォードについてのドキュメンタリーだとも言える。いわゆる「ラストベルト」の一部で「全米で最も惨めな町」とも言われているそうだ。
 でも、私はこの映画を観ているうちに、「ラストベルト」は、日本の将来のすがただと思った。すぐそこの角までが来ている。
 ザックの生き方には身につまされた。ザックは監督のビン・リューと、ほんとに幼なじみなので、少年時代の映像もいっぱいある。ハンサムだしスケボーも上手いしキラキラしている。
 その彼が、きれいな若い女の子と結婚して、可愛い男の子が生まれて、なのに、そこから破綻していく。ニューズウィークの記事によると、完成した映画を観たザックは「もっとひどい描かれ方をしていると思い込んでいた」そうだ。愁嘆という意味では「ひどい」と言えるシーンはあるが、人としてひどいと思う部分はない。
 個人的には、山内マリコの処女小説 『ここは退屈迎えに来て』の主人公を思い出した。映画にもなっているが、ああいう、映像化する意味がない小説をあえて映画化するセンスがすでに疑問なので観ていないが、小説は名作だった。
 ザックの描かれ方はすごくフェアだと思う。映像とザック自身に語らせている。憶測も誘導も印象操作もない。カメラはただ古い友人のようにそばにいて耳を傾けているだけ。
 キアーはこの映画が彼にとって何かと問われて「無料のセラピーみたいなもんだな」と答えている。この映画を通じて、ザック、キアー、ビンの3人が人生のある段階を乗り越えているのがよくわかる。いちばん深い谷を乗り越えたのはザックだけれども、そういう時、スケボー仲間がいたことは、幸福だったと思う。おそらくザックが越えた深い谷に私たち日本人も直面することになると思う。
 キアーが亡くなった親父さんの言葉を言っていた。今度生まれてくるとしても、また黒人に生まれたい、なぜなら、黒人は立ち向かうことができる。白人ならぺしゃんこになってしまうようなことでも黒人なら平気でやりすごせる。

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