テオドール・シャセリオー

knockeye2017-04-14

 今、オルセー美術館があるところには、もともとナポレオンが建てたオルセー宮があって、紆余曲折を経た後、会計検査院が使用していた。その大階段を飾る壁画を描いたのがテオドール・シャセリオーだった。19世紀に独力で描いた壁画として最大のものだったが、彼の死後ほどなく、パリ・コミューンの混乱に焼け落ち、壁画もろともしばらく廃墟として放置されていた。チュイルリー庭園やルーブル美術館セーヌ川対岸に、そうした廃墟が朽ちるに任せられてあった。
 テオドール・シャセリオーはフランス人だが、生まれはサン・ドマング島(今のハイチ)で、彼の母親はかの地のクレオールだった。
 クレオールと聞くと、ついついニューオーリンズが心に浮かぶが、本来は、人種を問わず「植民地生まれ」の人々をそう呼ぶのだそうだ。
 しかし、テオドール・シャセリオー自身は文字通り混血であったかもしれないという。自画像が一点残っているけれどそれは自己申告だし、それ以外に彼のまともな肖像画や写真は残っておらず、どうやら容姿にコンプレックスを抱いていたのではないかと勘ぐってしまう。「醜い」という書かれ方をしている文章もある。一方で、エレガントで魅力的だったという複数の証言もある。
 19世紀当時の「醜い」という感覚は、たぶん、今のそれとはだいぶ違うらしい。たとえば、シャセリオーの≪二人の姉妹≫という絵などは、

発表された当時、「わざと醜く描いたよう」云々の批評もあったとか。ちなみにリアリズムの先駆的存在であるギュスターヴ・クールベはテオドール・シャセリオーと同年に生まれている。
 というわけで、「醜い」という、現代ではずいぶん強い響きのある言葉が、19世紀にどういうニュアンスだったか正確にはつかみかねる。いずれにせよ、シャセリオー本人が、自分の容姿に抱いていた屈折が、よくもわるくも、その出自に関する屈折であった可能性はあるのだろう。のちに彼が描く女性たちは、どこかエキゾチックな美貌をたたえている。

 そもそも、テオドール・シャセリオーがなぜサン・ドマング島で生まれたかといえば、それは彼の父であるブノワ・シャセリオーが、ナポレオンの派遣した遠征に参加して、そのまま当地に住み着いていたからだった。
 そのあとのことは、図録を読んでもどうもよくわからない。「不運な決闘」(?)の結果、任を解かれ、コーヒー園を営んでいたらしいが、その後、かのシモン・ボリバルの側近として活躍する。ヌエヴァグラナダ共和国では閣僚だったし、1814年にはパナマ解放を目指す遠征軍を率いていた。
 1824年には、当時のフランス外相から諜報部員としてコロンビアに派遣されている。なかなか複雑。というか、波乱万丈というか。ナポレオンがサン・ドマングに軍隊を送ったのは、ハイチ革命を鎮圧するためだったはずで、シモン・ボリバルとともにスペイン軍と戦っていた時も、フランス政府のために働いていたのかもしれない。しかし、この人の行動にはそうした一貫性よりもフランス人特有の個人主義を見る方がよいのかもしれない。最期は公金横領の疑いをかけられて客死(おそらくは自殺)している。
 パリに戻ったテオドールは早くから画才を発揮し、11歳でジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルに弟子入りを許され、彼がローマに立つまで直接薫陶を受けた。のちにローマで再会したときのことをテオドールはこう言っている。
「私たちはかなり長いこと話し合いましたが、多くの点で決して分かり合えないと知りました。彼は全盛期を生きましたが、現代の諸芸術に生まれた考えや変化をまったく理解していません。彼は最近の詩人のことは誰のこともまったく知らないでいるのです。彼にとってはそれで良いのでしょう。思い出のように、過去の芸術のある時代の複製のように、彼は変わらないでしょうから。未来のためのものは何も作らないで。僕の望み、僕の考えは全く違うのです。」
 ただ、このときアングルは、すでに、ローマのフランス・アカデミー院長を務める60歳の巨匠であり、シャセリオーは20歳か21歳だった。11歳で入門した弟子がこんなことを言うのをアングルはどう聞いたか。
 60歳のアングルと20歳のシャセリオーが言説で対決できたフランスの社会をうらやましく思う。去年だったか、国会前でデモしていた若者たちは、デモをおしゃれにしたと評判になったが、自分たちの行動を、前世代との違いを鮮明に対置することができていたかというと、私にはそう見えなかった。彼らの言っていたのは結局「なにかおかしいぞ」だけだった。60年代のときもそうだったが(戦前の左翼右翼からそうかもしれない)、日本のこうした運動は表層的、情緒的になりがちで、1年後には「あれって何だったっけ?」ってことになるのがとどのつまり。
 もうひとつには、このときのシャセリオーの芸術観では、絵画と詩に区別がなかったことがわかる。このことは先日ふれたナビ派と対照的だろう。ある意味では、絵が言葉に隷属しているともいえる、一方で、芸術運動が総合性を保っているともいえる。ロマン主義象徴主義、リアリズムといえば、絵画以外の芸術も含まれるが、印象派ナビ派、という言葉が絵画以外に使えるとしたら、比喩としてだけだろう。 

 これは《泉のほとりで眠るニンフ》。モデルは、パリで一番美しい体と言われていたアリス・オジーだと、当時のパリでは誰もがわかった。このころ、シャセリオーはヴィクトル・ユゴーとの恋のさや当てに勝利し、彼女と付き合っていた。
 シャセリオーはドラクロワの流れを汲むと思われるのを嫌がって、自分がアングルの弟子であることを主張した。15歳のテオドールが描いた《16世紀のスペイン女性の肖像の模写》を、アングルが褒めて「生涯手放さないように」と約束させたことがあった。シャセリオーはアリスに、その絵以外ならどの絵でも持っていっていいと言ったそうなのだけれど、アリスは、どうしてもとせがんでその絵を手に入れた。そんないきさつがあったのに、ふたりが詩人のテオフィル・ゴーティエと昼食をともにしていたとき、アリスは、そのシャセリオーとアングルとの約束を、どんな風にか知らないが、茶化して話したそうなのだ。テオドールは激昂してその絵にナイフを振り下ろし、部屋を出て二度と戻らなかった。それが2年にわたる恋の終焉だった。もっとも、アリスはゴーティエの恋人でもあったそうだけれど。
 絵はのちに画家のもとに返され、画家の手で修復されたが、テオドールが、37歳で夭逝したあと、その絵に再会したアリスは泣いた。
 ギュスターヴ・モローはシャセリオーと交流があり、初期のころは、シャセリオーの模倣だと言われることもあったという。今の私たちはむしろモローからシャセリオーにさかのぼるだろう。当時の人たちがドラクロワからシャセリオーを望んだように。

 ≪アポロンとダフネ≫のこの感じとか、身を投げる寸前のサッフォーを描いた絵とかは、たしかにモローを思わせる。
 ゴーティエは「もっと純粋で、もっと完璧な、もっと明確な画家はほかにいたが、テオドール・シャセリオーほど我々の心をかき乱した画家はいなかった。」と述懐している。
 ギュスターヴ・モローオディロン・ルドンなど象徴主義の画家たちを、印象派ナビ派の画家たちと分けているのは、たしかにその文学性かもしれない。ナビ派はそういった文学性と決別することでアンティミストになりえた。文学と別れた美術はその後かなりの遠くまで進んでいったように見えるのだけれど、文学は、すくなくとも小説は19世紀からさほど変わっていないのかもしれない。むしろ、文学性は小説を離れて、マンガやアニメ、映画といった視覚芸術の助けを必要とする時代になりつつあるのかもしれない。
 ギュスターヴ・モローがテオドール・シャセリオーを出発点としていると言っても間違いではなさそう。モロー自身も「芸術に少しでも関心がある者のあいだでは、シャセリオーの思い出、私が大いに愛したあの高貴で素晴らしき芸術家の記憶に対する私の忠実なる思いはあまりにもよく知られています」といい、シャセリオーの思い出に捧げるオマージュとして≪若者と死≫を描いている。
 モローの門下には、ジョルジュ・ルオーアンリ・マティス、アルベール・マルケがいる。モローとルオーは宗教に対する態度がよく似ていると思うが、マティスとマルケはまるでちがう。ただ、アングルが敬愛したラファエロから連綿と、絵画に対するリスペクトを、彼らは受け継いできている。その継承の重さと、革新をめざす熱さの両方について、ともすれば、過去に埋没してしまいそうな、歴史上もっとも革命的だった時代を生きたシャセリオーの絵を観ていると考えさせられる。