モローとルオー

knockeye2013-10-26

 ギュスターヴ・カイユボットの遺贈した印象派のコレクションが、すったもんだの末に、リュクサンブール美術館に展示されたのが1897年だそうだが、ギュスターヴ・モローが72歳で亡くなったのはその翌年で、モローの遺言は、彼の作品を、邸宅ごと美術館として国家に遺贈することを望んでいた。前例のないことなので、最初は拒否されたらしい。友人で包括受遺者のアンリ・リュップの奔走のすえ、ギュスターヴ・モロー美術館が開館したのは1903年だった。
 ジョルジュ・ルオーは、これもモローの遺言で、この美術館の初代館長となり、その後、27年間この職責を務めた。30そこそこからだから、サラリーマンが定年まで勤めあげた感じか。2400フランの年俸も、モローの遺言で定められていた。金銭にわずらわされることなく絵が描けるようにという愛弟子への配慮だった。
 どのくらいの時期か、また、どんなふうにかくわしくしらないけれど、ルオーはその美術館に住んでさえいた。娘にピアノを習わしていたことがあったらしいが、アンリ・リュップに、それはやめてといわれたらしい。
 ルオーが、それに、マチスやマルケも、モローのもとで学んでいたことは知っていたけれど、この三人の絵とモローの絵に、たとえば、狩野派とか、歌川一門とか、そんなきわだった類似をみつけられなかったので、たまたまだろ、くらいにしか思ってなかったけれど、モローっていうひとは慕われていたらしい。野茂とイチローにとっての仰木彬みたいな感じ?。
 今回の展覧会の図録に、エマニュエル・シュワルツ(パリ国立高等美術学校主任学芸員)ていうひとが書いている「美術学校教授としてのギュスターヴ・モロー」という文章を読むと、そのへんの事情がよく分かる。ルオーやマティスがモローのもとで学んだ国立美術学校(エコール・デ・ボザール)の
「歴史は、校内の各アトリエ同士の競争の歴史でもあった。(略)その頃、アレクサンドル・カバネル、ウィリアム・アドルフ・ブグロー、レオン・ボナ、およびジャン=レオン・ジェローム昨日に引き続き、また名前が出て来ちゃったんだけど)といったアカデミズムの教授たちは、自分の弟子たちを学内で教育するよう、大学側から促されていたからである。」
 モローがエコール・デ・ボザールの教授になったのは1891年だそうだから、モローに残されているのはあと八年だけだったわけだけれど、モローがこのとき若い画学生たちに示したようなものに意味がないと思うなら、そもそも絵なんか描かなきゃいいと思う。
 「・・・アトリエというアトリエから人がやってくるようになった。もともとはオテル・ド・シメイの控えの間だったモローのアトリエは、実験室に変わっただけでなく、いわぱ『型にはまったデッサン画家』と『情熱的な色彩画家』の戦場に変わった。」
 マティスもこうして他の教授のもとからモローのアトリエへ移ってきた学生のひとりだった。たまたまじゃなかったのである。
 この展覧会が開かれているパナソニックの汐留ミュージアムは、ルオーのコレクションが充実している。以前、同じ美術館でルオーの「ユビュ」の連作を見たときは衝撃を受けた。ルオーと聞いて誰もが思い浮かべるあのルオーとは全く違って、ダイナミックな線。こういう筆を使う人とは思ってなかったので。
 しかし、今回、またあらためめてルオーの油彩を観て、なるほど、この画家のテーマは「美しいマチエール」だったんだなと思った。とくに「聖顔」をみていると、ルオーは自分の絵を、キリストの額をぬぐったヴェロニカの布のようでありたいとおもっていたのではないか、という気がしてくる。
 ギュスターヴ・モロー「パルクと死の天使」

 ジョルジュ・ルオー「われらがジャンヌ」

 ジョルジュ・ルオーキリスト教的夜景」