ぜんじろう、ピエール瀧、鴻上尚史、「自己検閲」と「炎上」について

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 ひさしぶりにぜんじろうの噂を聞いた。
 関西ローカルの『テレビのツボ』人気で、全国的にも売れそうになったものの、おなじく司会を務めた大桃美代子や出演者だった藤井隆がブレイクしたのと対照的に、急速に失速していってしまった。
 当時から、ちょっとルーズな面は、視聴者にも垣間見えていた。あまりにも遅刻するので、大桃美代子が「もう叱言をいうより、楽しくやることにした」とさじを投げたような発言をするのも聴いたことがあるし、本人も「そんなきちんとした生き方するなら芸人にならない」みたいな、つまり、調子に乗っていたので、これは、わりとよくある売れっ子のパターン、後の、はんにゃの金田がそうだけど、よしもとはわりと売れっ子を育てるのに長けていない。
 で、消えちゃったんだなと思って、気にもかけていなかったけれど、その後、海外に拠点を移して、日本の外で活躍しているらしい。しかも、2015年にはタイで開かれた世界お笑い大会で優勝して、そこから活躍の場が広がっているそうなのである。
 まあ、浮沈の激しい世界だから、それでどうなるかわからないが、ただ、まだ誰もやったことのない道を切り開いていく生き方は楽しいのではないかと思う。
 日本と海外のコメディーについて、上にリンクしているサイトのインタビュー記事を読んで、これはそうだなと思ったのは、タブーについての意識の違いだった。
 2011年に東日本大震災で東北一帯を津波が襲った時、海外のコメディアンが「日本はテクノロジーが進んでいるから、ビーチの方から家に来てくれるらしい」と言ったのが炎上して、そのコメディアンが謝罪に追い込まれたことがあったが、私見では、あれはいいギャグだった。
 なぜ、あれで謝罪しなきゃならなかったのか今でもわからない。たとえ、20000人が死んだ被害のさなかであっても、というより、そのさなかだからこそ、笑いは必要なんだし、コメディアンはそれが仕事なのである。
 津波の被害を「ビーチの方が家に来てくれる」というおとぼけに、あの時でさえ、いったいどのくらいの人が怒ったのだろうか。いずれにせよ、それに怒るのは、子供じみているってのがほんとのとこだろう。コメディアンが冗談を言うのになぜ怒らなければならない?。笑いは、むしろ、愛情なのである。この「むしろ」をはずして、もっと正確に言えば、笑いは笑いなのである。笑いはあった方がいい。すべるすべらないはあるものの、難しい時にあえて冗談を言っている人に怒るのは、それはやっぱり子供だと思う。私の知っている日本人はそんなことでは怒らない。
 ドン・キホーテのピアスっていうコラムを鴻上尚史が書いている。最近はまっているというツイッターピエール瀧についてツイートしたそうなのだ。
nikkan-spa.jp
 出演者の不祥事で、そのひとの過去作品全部が封印されるなんて風習は思考停止だと、書いたそうなのだが、鴻上尚史ツイッターにはまっている理由というのはそこからで、そのツイートの結果、5日間で閲覧が360万回、リツイートが約30000、「いいね」が60000、の中で、直接返信してきた275人のうち批判してきた人が約100人、「鴻上尚史」でエゴサーチした結果、この件に関して批判中傷しているツイートが約100人と、具体的に数字が分かる。
 この数字をどうとらえるべきなのかは、専門家でないのでわからないが、『ネット炎上の研究』の統計調査によると、炎上の参加者はネットユーザーの0.5%にすぎないということなので、それをあてはめると、360万の閲覧者に対して、18000人が批判すれば炎上ということになるわけだが、その数にはとうてい達しないように見える。

ネット炎上の研究

ネット炎上の研究

 炎上ですら0.5%なのに、それすらしていないこの意見への批判は、では、国民の何パーセントの意見だということになるのか?っていう、鴻上尚史の疑問はもっともだと思える。
 ところが、NHK、マスコミ、映画会社の対応は、多数意見側ではなく、ほとんど特殊ともいうべき意見に寄り添っている。これはいったい何なんだということになるが、これに似たようなことをつい最近どこかで読んだぞと記憶をたどってみると、江藤淳の『閉ざされた言語空間』だった。

占領軍の検閲と戦後日本 閉された言語空間 (文春文庫)

占領軍の検閲と戦後日本 閉された言語空間 (文春文庫)

 あの本では、報道の自由をもたらしたはずの占領軍が、隠然と、徹底した検閲を行っていて、そして、それに忖度する日本のマスコミが、自己検閲に陥ることで、かえって進歩的知識人としての特権意識を抱くようになる、ゆがんだ病理が描かれていたわけだが、今、日本のマスコミで行われている、法的にも、倫理的にも、何の根拠もない、「出演者の不祥事」→「作品封印」という「風習」は、1980年に江藤淳が書いていたことの正しさを確かに傍証していると見える。
 「不祥事を起こした出演者の過去作品は全部見せない」ことに何か根拠があるだろうか。それは、見せたり見せなかったりができる側に立つ連中の力の誇示にすぎず、法的にも倫理的にも何の根拠もないからこそ、それを決定する側の裁量の力は大きくなる。
 それをとりもなおさず「検閲」というんだが、そうした「検閲」を「倫理」と取り違えている、ごく少数意見とマスコミが同調せざるえないその異常さを、たぶん江藤淳は「閉ざされた言語空間」という言い方で表現したのかもしれない。1980年当時は分かりにくかったけれど、インターネットの普及を経て、マスコミの自己検閲の異常さが、だんだん一般にも認知され始めてきたというべきなのかもしれない。
 松本人志が、ピエール瀧の今回の事件について、「クスリでやった演技はドーピングだからアウト」というほぼ意味不明のコメントをしたらしいが、正直言って、わたくしは松本人志にワイドショーのコメンテーターなんてしてほしくないなと思っている。28年前の私が現在にタイムスリップしたら、イチローが今まで現役を続けていたことに驚くよりも、松本人志がワイドショーのコメンテーターをしていることに驚くかもしれない。ただ、阪神淡路大震災の1995年当時、いちばん笑わせてくれたのはダウンタウンだったことはまちがいない。だから、批判はしない。