『日本のいちばん長い日』、原作とふたつの映画

日本のいちばん長い日

日本のいちばん長い日

 福田和也の『昭和天皇 合本』に続いて、半藤一利の『日本のいちばん長い日 決定版』を読んだ。
そして、その勢いで、映画『日本のいちばん長い日』の1965年の岡本喜八監督のをAmazonプライムビデオで観た。ちなみに、原田眞人監督の2015年のものは、公開時に映画館で観た。

 岡本版と原田版の最大の違いは、原田眞人監督の方では本木雅弘昭和天皇を演じているのに対して、岡本喜八監督の方では誰が演じているのか、顔も見せない。1965年で、未だに神様扱いなのはちょっとはぐらかされた気持ちになる。時代と言えばそうなんだろうけれども、かつて、かたや侍従長、かたや侍従武官として、昭和天皇に仕えていた、鈴木貫太郎阿南惟幾のふたりが、首相と陸相として終戦を手繰り寄せたその心情を描くのに、人としての昭和天皇を描かないと、やっぱりそれはドラマとして変なのである。

 たぶん、1965年版をリアルタイムで経験した人が2015年版を観ると、思い出バイアスがかかるんだと思う。私みたいに先に2015年版を観て、その後に1965年版を観ると、阿南惟幾を演じた三船敏郎役所広司鈴木貫太郎を演じた笠智衆山崎努は甲乙つけがたい。

 しかし、敢えて言うと、それでも原作本の迫力がいちばんかもしれない。阿南惟幾切腹にしても、割腹し、自ら頸動脈を切ったあと、一時間も端座したまままだ息があった、なんてことは、文字だけが伝えられる迫力かもしれない。

 そして、映画ではどちらのバージョンでも描かれていないが、ポツダム宣言の受諾を決意した昭和天皇が、最後に母である皇太后に面会を望む。「自分はいま和平を結ぼうと思って骨を折っているが、これが成功するかどうかわからない。だから、あるいは皇太后様にお目にかかれるのも、こんどが最後になるかもしれぬ。一目お会いしてお別れを申上げたい」と。

 昭和天皇マッカーサーのふたりが面会して、どんなことを話し合ったのかはわからないのだが、昭和天皇個人は、自身の末路について甘い期待を抱いていなかったということはこれからも確かだろう。昭和天皇はなんども「国体の護持には自信がある」と口にするが、その自信の裏側には覚悟があったにちがいないだろう。

 それにしても、大日本帝国陸軍っていう連中は、最後には近衛師団まで欺いてクーデターを画策するとは、天皇を人質にとって戦争を継続しようとするのだから、この最後の悪あがきひとつとっても、軍の正体は一目瞭然なのである。
 福田和也の『昭和天皇』は、昭和天皇を核に同時代のありとあらゆる国や階層に及ぶ群像劇として構想されていて、たしかにこれはこれで面白いのだけれど、『日本のいちばん長い日』のわずか24hに絞り込んだドラマは圧倒的である。でも、二・二六事件のときの鈴木貫太郎はどうだったかとか、その鈴木貫太郎の奥さんが実は、昭和天皇の乳母だった人で、子供のころの昭和天皇はどうだったかとか、その他、そういう予備知識を得た後、に『日本のいちばん長い日』を読むと、さらにあじわい深い。
 軍部は、五・一五のときも二・二六の時もそうだが、天皇個人に対する敬意は全くなく「国体」ということをいうわけだけれど、その実態は彼らのエゴにすぎない、と思わない人はどれくらいいるのか知らないが、わたしは、つい最近の天皇生前退位をめぐる議論を思い出した。
 天皇生前退位女性天皇も、天皇の歴史を振り返れば、まったく正常なことであるのに、それにどうしても反対する連中が「保守」を名乗ってるのは実に気持ちが悪い。彼らの姿は「国体」を振り回して、傍若無人にふるまっていた帝国陸軍と輪郭が重なると思うのだ。

 何年か前にバズった記事に
gendai.ismedia.jp
というのがあった。

 国家予算の280倍を戦争に費やした軍部が、何度となく国家の危機を救った高橋是清を「君側の奸」呼ばわりしてなますに切り刻む、しかも、それをマスコミがほめそやすって、どういうブラックジョークなんだろうか。亡国の輩は軍部であったことは疑いようもない。問題は、そのやり口が日本会議のやり口と重なってるのが気持ち悪いのである。
 明治憲法は「天皇神聖にして侵すべからず」として、さらに軍の統帥権天皇に置いていた。これを制定した明治の元勲たちは、明治天皇と個人的につながっていたので、これは文字通りの意味であっただろう。まさか、これがのちに、軍部の暴走のレトリックに使われるなどという卑しい想像はしたこともなかったに違いない。しかし、実際は、そういう卑しい連中が国を牛耳ることになった。明治憲法はそういう卑しい連中を利する欠陥憲法だったということである。
 靖国信者と日蓮主義者が組んで謀略をめぐらすなどということが2度と繰り返されないことを願いたい。