ニューズウィーク日本版の「百田尚樹現象」と『国姓爺合戦』

 ニューズウィーク日本版の「百田尚樹特集」は話題になってるらしく、公式サイトに「なぜ特集したか」という記事が一本書かれている。これは珍しい。
 こないだ爆笑問題の「真夜中のカーボーイ」を聴いていたら、太田さんが百田尚樹について喋ってた。意外に太田さんは百田尚樹の『永遠の0』も『日本国紀』も読んだそうなのだ。誰が読んでるんだろうと思ってたが、読書家で知られる太田さんは読むんだね。
 太田さんの感想では、百田尚樹は本とTwitterでは別人格みたいだそうである。本で書いていることとTwitterでとってる態度がまるで違う。私は一冊も読んでいないが、Twitterのほうはいやでも目にすることになるわけで、この調子で書き連ねてある本を誰が読むんだろうと思ってたわけである。
 つまり、もともと放送作家でエンターテインメントとしてモノを書いて来たひとが、その態度のまま本を書いている。だから、ウケればいいので、それがすべてなのである。そして、これといったオリジナリティーがない作家がストーリーテリングのうまさだけで勝負しようとすると、右派的な言論ということになるのだと思う。これが、半藤一利や保坂正康のように丹念に文献に当たろうとすると、別の才能が必要になるし、自由自在に手前勝手なストーリーテリングは発揮できない。それで、あくまで「歴史小説」ということになる。それは、「逃げ」だけれども、売れる本を作るっていうことを第一義に考えれば、その方が売れるんだろう。売れる、けれども、ファクトの裏付けはない。
 その言い訳として持ち出されるのが「読者を元気にしたい」という、これまたどうともとれるうつろな標語なんだが、ストーリーテリング、つまり、お話が面白いだけの本を世に出すについてのモチベーションを「政治を正したい」とか「史実を明らかにしたい」とか大見得を切ると泥沼にはまることになるので「読者を元気にしたい」みたいなことにモチベーションを設定せざるえない。
 で、現に売れまくっている。出版社としては売れる本を出したいのは当然で、その売れる本を書いてくれる作家が目の前にいるわけだから、その本を出さない手はない。そして、批判を受けた時の言い訳は「読者を元気にしたい」で「こちらの方が事実だ」とかではない。
 だから、これは書く方と出版する方は、ただビジネスなのであって、だから、当たり障りのないことに徹している。出版社の方は百田尚樹にできればTwitterは辞めてほしいと言っているそうだ。
 しかし、問題は読む方で、なぜこんな、出典もない、ただ、「面白いお話」にすぎないものを嬉々として読んでいるのかについて考えると、江藤淳が『国姓爺合戦』について書いていたことを思い出さざるえない。『国姓爺合戦』は、清朝に対して明朝を復興しようと奮戦した、日本と中国の混血児の「鄭成功」を、主人公「和藤内」のモデルとしている。
 『国姓爺合戦』のひとくだり。

「和藤内、虎の背をなでて、うぬらが小国とてあなどる日本人、虎さえ怖がる日本の手なみ覚えたか!。」
「・・・わが家来になるからは日本流にさかやき剃って元服させ、名も改めて召し使わんと・・・」

江戸時代の日本人はこういうので元気になっていた。
 江藤淳はこう書いている。

「和藤内の行為を実際の対外政策に翻訳してみれば策の下なるものであることはつけ加えるまでもない。日本人は満州国に神社を建てて皇帝溥儀に嘲笑され、朝鮮人に創氏改姓を勧めて憎悪を買った。」
「しかし、それにもかかわらず、あたかもこれらの愚行を予言しているかのような『国姓爺合戦』に興じていた観客は、和藤内の奮戦ぶりをみていて幸福になったのである。」
「私はこういう和藤内の姿に、日本人の不幸の投影を見ないわけにいかない。それは、自らの感情の充足と、"普遍的"原理の受容とのあいだにいつも背馳するものを感じつづけなければならなかった民族の不幸である。あるいは中国文明という巨大な自律した文明の周辺にあって、つねにそれとの対比の上で自分を眺めなければならなかった民族の感情生活に生じたひとつの緊張である。外圧が加わったとき、この緊張は極点に達し、逆に現実には決して存在し得なかった幻影の国家ーーー自足した、感情生活の充足がそのまま“普遍的”な原理の確認になるような国家を夢みさせた。」

 『国姓爺合戦』が史実でないように、百田尚樹も史実ではなく、『国姓爺合戦』が日本人を元気にしたように、百田尚樹も日本人を元気にしているのだろう。行きつくはては、もう知ってるはずだけどね。

 しかし、このニューズウィークの特集が「大反響」を生んだのは、この長編ルポを書いた石戸諭の行き届いた取材に負うところが大きいと思う。

 百田尚樹について書かれたところよりも、私としては、War Guilt Information Proglamについて、

ウォー・ギルト・プログラム: GHQ情報教育政策の実像

ウォー・ギルト・プログラム: GHQ情報教育政策の実像

という、研究がされていたことを知ったことの方が大きかったかもしれない。
 このWar Guilt Information Proglamについて江藤淳が『閉ざされた言語空間』で発表したときは、ほとんど黙殺されたということだったが、それがいま、右派と左派のありがちな論争のタネとなっている。
 『閉ざされた言語空間』は一次資料にあたった、他の江藤淳の著作とおなじく優れた研究だった。

占領軍の検閲と戦後日本 閉された言語空間 (文春文庫)

占領軍の検閲と戦後日本 閉された言語空間 (文春文庫)


 しかし、読者としていちばん印象に残ったことは、War Guilt Information Proglamの精神的態度が、日本のリベラルの態度と重なってることだった。私は日本人の言う「リベラル」が、本来の意味のリベラルとは違っているような気がしていたので、これは腑に落ちたのである。
 今の右派メディアが政権に忖度しているように、占領下のメディアは占領軍に忖度していた、そして、その名残がリベラルなわけである。右派左派のいがみ合いは何のことはない、ただの「忖度合戦」だった。
 江藤淳は、核となる倫理観のない言説を批判していたのだと思う。
 ところで、今、神奈川近代文学館では「江藤淳展」が開催されている。
www.kanabun.or.jp
 
 昨日は、上野千鶴子が「戦後批評の正嫡 江藤淳」と題して記念講演をしたそうだ。気が付いたときにはチケットが完売していたので聴けなかった。『成熟と喪失』の文庫版あとがきでは、批判的だった上野千鶴子がどういうことを語ったか聴きたかったが残念。

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神奈川文学館 江藤淳