ケイト・ウィンスレットの演じるメアリー・アニングという女性は実在した19世紀の古生物学者だそうだが、この映画のメアリー・アニングのキャラクターはまったくの創作で、ケイト・ウィンスレットの抑制された演技が、陰影の深い性格劇の主人公を生み出している。
その人となりがほとんどわからないとしても、19世紀初頭の英国女性を描く場合、この映画とはまったく違う風に描くことも可能だったろうと思う。
1799年という18世紀最後の年に生まれたこの女性が少なくとも英国の博物学にその名をとどめている、しかもたった12歳の女子の発見も公平に扱ったという事実は、18世紀の英国の空気を示しているのかもしれないし、その後、彼女が忘れ去られたという事実はまた、19世紀の英国の空気を示しているかもしれない。
なので、19世紀なかば、47歳で亡くなったこの女性の後半生のある時期を描いたとすれば、この雰囲気は案外、事実と遠からぬものなのかもしれないが、ひとまず、この映画のメアリー・アニングが生きている世界は寓話の中である。
最近、この時代の女性を映画が描こうとすると、みんな同性愛になってしまうかの感がある。たとえば『女王陛下のお気に入り』、『燃ゆる女の肖像』。まるで、当時の男女関係には現代の感覚でいう恋愛など存在しえなかったとでも言いたげ。
この理由もよくわかる。男女関係は社会そのものだから、男女の恋愛を描こうとすると、当時の社会を描くことになってしまう。19世紀の社会に観客も作り手も興味があるわけではないなら、普遍的な人間関係を描こうとすると、非社会的な関係を選ばざるえない。
ちなみにほぼ同時代人のウィリアム・ワーズワースやバイロン卿は、ともに姉妹との道ならぬ恋愛に悩んでいた。「近親相姦」がこの時代に多かった理由は、貴族の場合、家庭教育が普通で、子どもたちが兄弟姉妹としか接触していなかったためではないかと思っている。
この映画のメアリー・アニングの背景としてもうひとつ重要なのは階級社会。イギリスでは階級で話す言葉さえ違う。上流階級は「recieved pronounce」と言われる発音で話す。音楽会のシーンは、それを知っている方が理解しやすいと思う。たぶん、メアリーが音楽会に招待されたのもあの医者が外国人だったからだと思う。
しかし、あのシーンはメアリーの性格でなければまた違う反応になっただろう。かつてのパートナーに「稲妻」に喩えられる、激しい性格をケイト・ウィンスレットが巧みに演じている。
ラストシーンは、まるで一枚の絵のような見事な終わり方だった。オープンエンドと言っていいのだろう。ケイト・ウィンスレットの前に、シャーロット(シアーシャ・ローナン)がスフィンクスのように立っている。2人の間には、メアリー・アニングが発掘したのに、彼女の名前さえ明記されていないイクチオサウルスの化石がある。
メアリーには二つの選択肢がある。ひとつは海辺の村に戻り発掘生活を続ける。もうひとつは、シャーロットの申し出を受け入れ、ロンドンの屋敷で一緒に暮らす。
しかし、この選択にそんなに切実な岐路が存在しているだろうか?。申し出を断るにしても、シャーロットとの関係を壊さずに帰ることもできたはずだし、受けたとしても、大半の時を発掘に費やすこともできたはずだった。
では、なぜメアリーはあんなに怒ったのかといえば、彼女の今までの生活を否定されたと感じだからだった。化石発掘にかける、当時の感覚としては「奇妙な」情熱を、理解してくれたと感じていた人に裏切られたと感じたからだ。
そのメアリーの気持ちをシャーロットが理解したかどうかを、観客はあのラストシーンで読み取らなければならないが、それは観客に委ねられているように思う。
ケイト・ウィンスレットは『女と男の観覧車』が、ウディ・アレンをめぐる#metoo騒動に巻き込まれて不振に終わったのが残念だった。ケイト・ウィンスレットの演技はあの時も素晴らしかったし、映画自体もいつも通りよかった。
ウディ・アレンは『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』を最後に映画界を追放されたようになっているが、何年も前に法廷で白の結論が出てる事件を、これといった根拠もなく蒸し返して追放まで行くのは行き過ぎのように思う。ヒステリックにさえ思える。これに関しては『ウディ・アレン追放』という本が出ているので、読んでみるかどうか迷っている。