『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』『WORTH 命の値段』

 『WORTH 命の値段』の予告編だけをみると、9.11のテロ被害者に対して、米政府が迅速に補償金を支出しようとしたように見えるが、一面には、保険会社の保険金支払いを免除させる目的もあった。
 もちろん、保険会社との訴訟となった場合、判決まで長い時間がかかる。なので、迅速に補償の支出を決定したことは、未曾有の大規模テロを考えると、米政府に後ろ指を刺されることはなかったろうが、それでも、当初、この支払いに応じようとした遺族は10%程度にとどまっていた。
 この支払いに応じる遺族があまりに少ない場合、この補償事業は破棄せざる得ない。補償に応じる遺族の割合をなんとか80%にまで高めた実在の弁護士をマイケル・キートンが演じている。
 この映画は、前にも書いたけど、先月末に観ていたが、悪くもないものの、そんなに引っ掛からなかった。ひとつ思ったのは、スタンリー・トゥッチの演ずるチャールズ・ウルフのように、遺族の代表となって意見をまとめ、運動としてゆく存在が日本にはいないだろうと思った。そんな風な公的な言葉を、日本人は奪われてしまって、あるいは自ら放棄してしまって、権力に従うしかないのだろうと。
 しかし、『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』を観て驚いた。まさに裁判を担当した弁護士の口から「命の値段」と言う言葉が出てきたのだった。
 テロと自然災害の違いはあるとはいえ、この映画で起こっていることはまさに『WORTH 命の値段』で描かれていること、それ以上のことだった。
 なぜなら、『WORTH』の方では、政府が補償しようとしたのに対して、大川小学校の事件のケースでは、市教委、市長、県教委、第三者機関などほとんどすべての行政機関が真実を隠蔽しようとしたため、最終的には『WORTH』では回避できた裁判に、大川小の親たちはなだれこまざるえなくなった。
 被告側のやった不誠実なさまざまなことの中でも特にせこいと思ったのは、学校に残った複数の時計が津波の到達時刻を37分と示しているにもかかわらず、それより7分早い30分ごろだと結論づけようとしたことだった。
 何のことだかわかりますか?。何だろうと思ったら、その7分があれば余裕で避難できる状況だったことを、敢えて津波の到達時間を早める(後に撤回している)ことで、責任を回避しようとしたのだ。責任逃れすることにしか興味がない行政側の意識を浮き彫りにしている。この日本の行政の「せこさ」には改めて驚いた。しかもこれは市教委や県教委が無責任で当てにならないということで設置された第三者機関で、こんな捏造が行われたのだった。
 他の小学校に比べて突出して多数の被害者を出している時点で、そこに何かの問題があったことは間違いない。にもかかわらず、それを解明しようとする意思を、行政側の誰も持たなかった。
 こういう行政と闘う中で、親御さんたちがどんどん言葉を獲得していくのに驚いた。最初はふつうのおじさんおばさんなのが、だんだんと言葉の力を持ち始める。
 この映画自体が、事件と同時進行的に親御さんたちのひとりが撮り続けてきた映像があったからこそ実現できた。
 つまり、ジャーナリズムとしても、市民運動としても、自然発生的に生まれてきた現場を見ることができる。日本でも、このような市民運動が発生すことがあり、そこに定点観測的なカメラが回っていれば、ほとんど、フレデリック・ワイズマンのようなレベルのドキュメンタリーが撮られうるということに驚いた。
 しかし、それでも日本に特異的だなと思ったのは、震災で子供を亡くしたこうした親たちを脅迫するネトウヨがいることである。殺害予告とかやらかしていたらしい。
 個人的な見解としてだんだん確信に変わっているのだけれど、日本のネトウヨのバックボーンは、いわゆる「親米右翼」という、そもそも本質的に矛盾している思想で、具体的にいえば江藤淳的なことなのだろう。
 江藤淳の態度は一言で言えば、日本を守るためにアメリカに媚びるということだった。専門家は一笑に付してもらっていい。しかし、大衆にはそのように伝わるしかなく、大衆にそう伝わるしかないなら、それがつまり紛れもなく江藤淳なのである。
 「靖国にみんなでお詣り」なんてお笑い草をやらかす文化人は、最後にネトウヨを残すのみだったのである。江藤淳は、日本に自律的な文化はないと思い込んでいた。しかし、この映画に見られるように、自律的な文化はそこかしこに、東北の小さな小学校からも、いつでも、生まれうるということをこの映画は証明しているように思う。


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