『ペンタゴン・ペーパーズ』

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 ベトナム戦争についてアメリカ政府が隠蔽しようとした戦争の実態が、内部告発と報道によって暴かれる、その過程を、この脚本は、ワシントン・ポストの社主・キャサリン・グラハムを主人公にして描いていく。
 この脚本のオリジナルは、リズ・ハンナという無名の女性が、キャサリン・グラハムの自伝に触発されて書いたもので、ソニー・ピクチャーズ会長のエイミー・パスカルが一読して映画化を決めた。その発表が2016年10月、クランクインしたのが2017年5月30日、クランクアップはその年の11月6日と、スピルバーグ作品で「もっとも短期間で完成」した映画だそうだ。
 スピルバーグがインタビューで

この映画は私たちにとっての「ツイート」のようなものです。

と発言している。
 
 だとすれば、これほど贅沢なツイートもないが、メリル・ストリープトム・ハンクスをはじめ、すべてのキャスト、そして、脚本をリライトしたジョシュ・シンガー(『スポットライト』でオスカーを獲得した)を含め、すべてのスタッフの、プロの手並みの鮮やかさを感じさせる。
 
 日本の映画でこれに似たことを感じたのは、川島雄三監督の『幕末太陽傳』を観た時で、当時の日本映画の、キャスト、スタッフの全体的なスキルの高さが、幕末の品川遊郭を再現した画面から伝わってきた。主演のフランキー堺がのちに小林信彦に語ったことでは、「フランキーもの」と呼ばれるシリーズのひとつくらいな軽いノリだったらしい。今では日本映画を代表する名作のひとつになっている。構想〇〇年が傑作を生むとは限らないわけ。
 
 この脚本の優れた点は、主人公のキャサリン・グラハムと、「ペンタゴン・ペーパーズ」を作らせたロバート・マクナマラの、家族ぐるみで親しい交際に着目した点だと思う。
 ロバート・マクナマラといえば、ベトナム戦争を泥沼化させた張本人のように、私なんかは思っていた。し、そう言っても間違いとまで言われないだろうけれど、だから、そちら側の視点から、ベトナム戦争を描く試みはなかなか困難なはずだが、ベトナム戦争という大きな構図を、キャサリンマクナマラの旧友同士の関係(対決?)に落とし込んで見せたのは見事だった。
 プライベートで親密な友人であったとしても、パブリックな立場で意見が対立したとき、ちゃんとした会話が成立するか、感情的にならず、なあなあにならず、自分の思いを相手に伝えられるか、それができることが大人であることなんだが、日本で「大人になる」という言葉はそれと真逆の意味で使われている。
 プライベートとパブリックがなあなあだから、日本では大人のドラマが成立しない。それは、映画やテレビで成立しないだけでなく、現実の生活の場で成立しないのだ。
 たとえば、この映画をダシに使って、最近の安倍政権と朝日新聞の関係について、誰かが何か書いたりするかもしれない。
 しかし、日本の報道機関には記者クラブなんていうなれあいのための団体があり、自分たちの既得権をガッチリ守っている。報道機関自体が既得権団体なのだ。そして、その既得権を守るために自分たちの情報源である官僚の不利になることは絶対に書かない。
 文科省の元事務次官が、天下りの責任を取って辞任したのに、天下りについては一切書かず、文科省から次々と出てくるメモのたぐいだけを報道したりするのがその一例である。
 キャサリンマクナマラのように、日本の報道と官僚は、プライベートとパブリックな関係で引き裂かれたりしない。パブリックの場でも堂々と馴れ合っている。
 森友問題にしても、自衛隊の日報問題にしても、問題は文民統治が平然と侵犯されたことにあるのに、それがなぜか政権の責任という報道になる。「政権はいまのところ佐川信寿・前国税長官にすべての責を押しつけて逃げ切りを図る構えだ」みたいなことを書いてくれる。
 官僚にとってみれば、自分たちが公文書を書き換えても、情報を隠しても、クオリティ・ペーパーの記者クラブが、政権のせいにしてくれる。
 そして、あわよくば、内閣人事局を槍玉にあげようと、アドバルーン記事を上げてみてくれる。
 しかも、それをなぜか国会前でデモなどして応援してくれる国民がいる。この意味がわからないデモが、民主主義と何か関係しているのだろうか?。
 ロバート・マクナマラは、少なくとも「ペンタゴン・ペーパーズ」を作らせて、後世のために保管させていた。だから、暴露もできた。日本の官僚は、文書を破棄し、書き換えている。どっちがひどい?。
 官僚が、国民の代表である国会に対して欺瞞を働いたのであるから、国民は当然、官僚に対して怒らなければならないはずだが、「公文書を書き換えて自殺した役人が可哀想」みたいな。どっちかといえば、騙されてる自分たちがよほど可哀想なはずなんだが、当の騙してる官僚を応援している。まあ、あのデモの実態は動員か知らないが、報道もデモもヤラセだとしても、目下のところ、私たちにどんな選択肢もない。
 こういうことを書いてると「安倍応援団」とか言われるが、控えめに言っても、記者クラブメデイアが「官僚応援団」だと思うが、むしろ、同じ穴のムジナか。
 いずれにせよ、官僚とつるんだ記者クラブメディアが政権を攻撃することと、アメリカの報道が政権の嘘を暴くことは、まるで違うだけでなく、ほぼ真逆である。
 ニューヨーク・タイムズワシントン・ポスト対アメリカ政府という法廷闘争も描かれるが、この判決も感動的だ。その描き方もうまい。
 日本の場合、司法と行政がグズグズなので、こういう判決が下ることはまずない。日本の場合、司法も行政も報道もすべてがなれあっていて、国民の声が反映されることはない。つまり、日本では裁判でも選挙でも民意を反映させることができず、それを報道する場もなく、逆にメディアには「日本国民は右傾化している」と書かれるだけなのである。
 
 クレジットの最後にノーラ・エフロンへの献辞がある。ノーラ・エフロンはもちろんトム・ハンクスとは『めぐり逢えたら』、『ユー・ガット・メール』など若い頃からタッグを組んできた間柄で、メリル・ストリープは『心みだれて』で、ノーラ・エフロン自身(と言っていいと思うが)を演じた縁でもあった。
 しかし、これは、オリジナル脚本のリズ・ハンナ、ソニー・ピクチャーズのエイミー・パウエル、そして、何より1970年代に、ワシントン・ポストの女性社主として、果敢にニクソン政権と対決したキャリー・グラハムだけでなく、男性社会で戦っている女性たちへの賛辞であるのだろう。
 ロバート・マクナマラとの対決についてはさっき書いたが、ワシントン・ポストの他の取締役に切ってみせる啖呵も胸のすくものだった。
 ちなみに啖呵を切られていたのは、テレビシリーズ『ホワイトハウス』でジョシュを演じたブラッドリー・ウィットフォードだったようだ(間違ってたら御免なさい)。
 それから、こないだ『シェイプ・オブ・ウォーター』で、ソ連のスパイを演じていたマイケル・スタールバーグが、ニューヨークタイムズの編集局長を演じていた。