『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています』

 李闘士男監督は『デトロイト・メタル・シティ』がすごくよかった。原作の漫画が面白かったには違いないけれど、面白い原作の映画化が必ず成功するとはかぎらないわけで、あれはやっぱり見事だったと思う。
 『神様はバリにいる』は、尾野真千子にコメディエンヌの才能はなかったようで、『デトロイト・メタル・シティ』の松山ケンイチのような疾走感はなかった。尾野真千子は、宮藤官九郎の『謝罪の王様』、『Too Young To Die』にも出てたけど、個人の感想としてはコメディには向かないと思う。誇張したお芝居ができない気がする。
 今回の『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。』は、YAHOO知恵袋の相談→ブログ→コミック→映画の伝言ゲームらしく、どのあたりでどうなったか分からないが、シナリオはグタグタ。
 でも、骨格はしっかりしてたと思う。バツイチの中年男が若い女の子と結婚する。しかし、前の離婚がトラウマになっていて結婚生活に自信が持てない。一方で、奥さんの方も、小さい頃に母親と死別していて、その頃の父親の悲嘆を目の当たりにしているため、別離を怖れる気持ちがひといちばい強い。
 このふたりの心理の化学作用が妻の死んだふりっていう「奇行」になっている。そういう現状があり、そこに、夫の後輩夫婦の別れ話や、妻のパート先での老店主とのふれあいや、妻の父の急病などがある、というエッセー風な起承転結のない描き方をすればよかったとおもうが、そんな風になってなくて、妻の死んだふりの謎解きみたいなプロットを無理矢理ハメ込んだような作為が透けて、作品に入り込めなかった。
 特にまずいなと思ったのは、夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したとかいう、私は知らなかったが、ネットで流布しているらしい根拠のないデマが、キーに使われているところ。ネットで検索してみると、もういろんなテレビドラマやコミックで使用済みだそうで、手垢のついたエピソードをわざわざ持ってこなくても良かったと思う。
 奥さんが「やっと気が付きましたか」って言うんだけど、それはないと思う。
 「死んだふり」のエピソードは『デトロイト・メタル・シティ』でいえば、クラウザーさんに変身するのと同じで、そこだけ非現実的に描いてよかったと思う。死んだふりの小道具にいちいち値札がついている必要はなかったと思う。松山ケンイチがトイレに隠れて、次に出てきたらクラウザーさんになってた、あの映画的表現をここでも発揮して欲しかった。
 中年のバツイチ男と、男手一つで育った若い奥さんがお互いを思いながら自分たちの夫婦生活に自信を持てないでいる日々と、非日常的な「死んだふり」の表現がうまく化学反応を起こすことができたら成功した可能性はあると思う。
 いずれにせよ、ナイストライだとは思いますね。
 それにしても、夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したなんて根拠のない話が、なぜネットで流行ったりするんだろう?。特に「いい話」とは思わないけど。

ジョルジュ・ブラック展 メタモルフォーシス

 ピカソとブラックがキュビズムを始めたことは間違いない。どちらが先だったかは、ハッキリ知らないが、しかし、このふたりのキュビズムはずいぶん違う印象がある。
 たとえば、これはよく言われることらしいが、ピカソの《アヴィニョンの娘たち》はキュビズムなのか?。
 ピカソにとってのキュビズムは通過点に過ぎなかったように見える。キュビズムだけでなく、ありとあらゆる実験を通して、ピカソは、アフリカ的段階へと、西欧的教養と秩序が、目と手を支配する前の、根源的な絵を描く欲求へと、深く潜行していったように見える。ピカソアンドレ・マルローに《アヴィニョンの娘たち》は、「私の最初の悪魔祓いの絵だった」と語ったそうだ。
 しかし、ブラックは、生涯キュビズムにとどまって満足していたように見える。おそらく、ピカソにとっては破壊だったものが、ブラックにとっては創造だったのであり、ピカソにとって下降だったベクトルが、ブラックにとっては上昇であり、ピカソにとって捨象だったことがブラックにとっては拡張だったのではないか。
 キュビズムという拡張された目と、想像する手を獲得したのだから、キュビズムの木を花盛りにしようとしたブラックの態度は、画工としてむしろまっとうであった。
 私はブラックの絵が好きなんだが、今回の展覧会にちょっと二の足を踏んでいたのは、今回のメタモルフォーシスって、絵じゃなくて、ブラックがデザインしたジュエリーっつうじゃないですか。
 これはもう大昔になるけど、ダリがデザインしたジュエリーの展覧会を観に行ったことがあった。その時の印象としては、何か変てこなものを見たつう記憶だったので、今回もどうかなぁ、何ならパスでもいいかなぁくらいに思っていた。
 しかし、行ってみるもんですな、感心しました。
 ブラックは、最晩年にこれに取り組んだそうで、もう死期を悟っていて、デザイン画の下には、サインと日付と、これをエゲル・ド・ルヴェンフェルドが立体作品に複製することに同意する旨の同意書まで書き添えた。
 ここには、いくつかの意味があると思うが、ひとつには、創造の過程に共同作業を受け入れたということである。発想から完成まで全てを自我の管理下に置くことを放棄した。
 もうひとつには、そのことと関連しているが、作品の複製を受け入れた。オリジナルとコピーの差がない点でこれは、アートではなくクラフトである。
 これは、キュビズム創始者が行き着いた先として意外であるとともに、痛快でもある。そして、何より、作品自身の完成度が高い。
 ダリのジュエリーがそんなでもなくブラックのこれらのメタモルフォーシスが美しいと感じるについては、シュールレアリズムが「暗喩」に、キュビズムが「換喩」に、それぞれの表現の基礎を置いているという、ロマン・ヤコブソンの説を思い出させる。
 ダリは、圧倒的に絵が上手い。だから、キュビズムではなくシュールレアリズムに行ったんだと思っていた。たとえば、松葉杖という暗喩には、松葉杖を描く画力が必要になる。松葉杖が松葉杖に見えなければ暗喩にならない。シュールレアリズムはキュビズムよりはるかに言葉に近いってことになるのかもしれない。
 ブラックの最晩年のこれらの造形作品が美しいのは、彼の作品が、対象を解体して再構築するキュビズムだからだろう。文字通りメタモルフォーシスアンドレ・マルローはこれらメタモルフォーシスをブラックの最高傑作と呼んだそうだ。
 アートからクラフトへというこのキュビズムメタモルフォーシスは、ピカソとはまるで違う展開でありながらも、アートを近代の作家性から解放し、それ以前の無名性へと還元するという意味では、ピカソ以上にラディカルにアートを解体しているかもしれない。
 汐留ミュージアムの図録は、最近、iPad miniくらいの大きさになってて買いやすい。装丁も今回の展覧会にふさわしくオシャレだった。デカイ版のものは見るにはいいけど、家に持って帰った時点で肘の靭帯が損傷してる。時々あるけど、Amazonで買えるとかにしてもらうと有難い。