フォトリアリズム

雨の日が続いている。新潟福島では、大変な被害が出ている。新潟は隣の県だが、あの県は南北に長ーいので、ここはいつもよりかえって雨が少ないくらい。でも今日は、いよいよ大雨警報が出た。


富山水墨美術館に水墨画トリエンナーレを見てきた。天気が良ければ、新潟市立美術館に行くつもりだったけど、この雨ではさすがに。


吉村さんの新しいカメラを見て、欲しくなってしまった。でも、まだ我慢する。やんやさんが、「つぶやき」で言っていたように、ホントに高級コンパクトはなくなるのだろうか?なくなるとすると、買い時だ。だいたい、カタログ落ち寸前が一番いいのだ。思いこみか?


カメラメーカー各社がデジタル一眼レフに力を入れるのは当然だと思う。今まで築きあげた堂々たるレンズ群を廃棄するはずはない。でも、高級コンパクトの世界も広げていって欲しい。


吉村さんに投稿して頂いた夜景の写真が、フォトリアリズムっぽかったので、「エステス」で検索してみたら、偶然にも、熊本県立美術館でちょうど展覧会があるみたい。フォトリアリズムは好きなんです。アメリカに似合う様式なのかも。とても都会的。印象派のマチエールが野暮ったく思えるくらい。


どうして、吉村さんの写真がフォトリアリズム的に見えるかというと、夜景なのにディテールがつぶれていないからではないかと思う。銀塩で、あの露出はそんな簡単じゃないです。ポジだとあんなにレンジが広くないんじゃないかと思う。ネガは黒の抜けがあんなに良くない。プロはちゃんと撮れるんだろうけど、とにかく私には無理。


フォトリアリズムの絵って写真みたいに見えるけど、写真以上に精細かも知れない。どうやって書いているのか分からないけど。あれが油絵なのだからびっくりしてしまう。写真が絵にコンプレックスを持っていた時代は、絵みたいな写真を目指す人も多かったが、そういうコンプレックスが薄れてきて、逆に絵が写真に惹かれるようになった。そういうことなんだろうか?ごく古い意味では、「写真みたいな絵」というのは、「実物みたい」という意味だったけど、写真の技術が一般化して、「写真=実物」ではないと認知されてきた現在では、「写真みたいな絵」は、別の意味を持ってきている。


「普通、こうやってファインダー覗いて空間を撮ってると思うでしょ。でも、それは違うの。それより、時間、相手との時間を撮る、のが普通なの。言い方を変えると、写真の中に時間が写っていないのは駄目なの。・・・(略)」これ今読んでいる、荒木経惟の本の一節。写真は絵と違って、シャッターを押した瞬間に、画角に入っているものはすべて写るわけで、良くも悪くも時間を記録してしまう。絵は、ずっと空間芸術をやってきたんだけど、その偽物みたいな写真が、時間を記録してしまうと言う事実は、絵にとってはかなりショックだったんじゃないか。時間という難解なものを自分の中にも取り込みたいと、思ったはずだ。そういう絵の側の意識みたいなのを、私はフォトリアリズムに感じる。