佐伯祐三

なぜ美術館が好きか分かった。ひと言も口をきかず、ジーッと突っ立っていても、不審者あつかいされないだけでなく、むしろその方が推奨されているからだ。そんな場所は滅多にない。
『プラート美術の至宝展』というのを見に行ったが、おじさんとおばさん二人という逆ドリカム編成トリオが、始終しゃべり続けて邪魔でしょうがなかった。聖母子像の何が面白いのか、耳障りなひき笑い、(「おちんちんだ」とか言っていたが)絵の前では手を振り回して指さし確認、どうやら絵を描く人たちらしいが、場所柄わきまえぬハシャぎよう。私はゆっくり見て回る方だが、くだんの三人もしゃべりが長くてペースが遅く、ズーッと煩わされ続けてしまった。ふだんはあんまり気にならないが、どうも今日は自分の調子もよくなかったのだろう。
展覧会自体もつまらなかった。副題が「フィレンツェに挑戦した都市の物語」とあるので、小フィレンツェみたいなことかなと(小京都といったような意味で)期待したが、対抗意識が不健全に思えた。聖母マリアの聖帯伝説にこだわりすぎている。コンプレックスから文化の純血主義に走るのは、洋の東西や今昔を問わず、ありがちなことらしい。憶えのないことではない。
いいなと思ったのは、テラコッタレリーフみたいな、家庭で礼拝する聖母子像。ストゥッコというもの。彩色されたものは、まるで地蔵盆のお地蔵さんみたい。素朴な信仰のにおいがした。チケットの写真にもそれが使われている。主催者のねらいとしてはそっちだったんだろう。
後味が悪いので、練馬区立美術館の佐伯祐三展に脚を延ばした。
佐伯祐三が巴里で客死した1928年は、金子光晴夫妻が日本を出航した年である。ほぼ同時代の巴里だ。そう思いながら見たせいだけではなく、佐伯祐三の巴里も「花の都」などという生やさしいものには見えなかった。1919年に描かれたデッサンの裏側には

「 x
クタバルナ
 x
今に見ろ。
 x
水ゴリをしてもやりぬく、きっと俺はやりぬく
やりぬかねばをくものか、
 x
死−病−仕事−愛−生活」

という落書きがある。画家としても、ちょっとしたデッサンの裏側までひっくり返されて、展覧会に飾られる日が来ようとは思いもしなかったことだろう。
しかし、佐伯祐三の巴里は、まさにこの落書きのいきおいそのままの筆致で描かれている。1925年の「サクレ・クール」や「街角(モロ・ジャフェリ広場)」の力強い黒の線やリズミカルな窓の配置を見ていてハッとした。まるでベルナール・ビュッフェだ。というより、ビュッフエが佐伯祐三ということになる。彼の初期の「裸婦」を「アカデミズム!」と罵倒した画家は、ヴラマンクだった。佐伯祐三もビュッフェもヴラマンクにつながっている。
佐伯祐三の描く家は、傾ぎゆがんでいる。たぶんそこに暮らす人たちでさえ、巴里の家々がこんなに表情ゆたかだとは気が付いていないだろう。以前、森村泰昌が「佐伯祐三はひたすらパリの壁にむかって、パリの壁を描き続けた。そして、その壁の内側にようやく入ったなというときに死んでしまった」というようなことを言っていた。絵筆一本でパリに挑み続けた格闘。「そういう佐伯祐三を、私はかっこいいなと思います」と言っていたのが印象に残っている。
享年わずか30。惜しすぎる死であった。