『西ひがし』

金子光晴の三部作の最後『西ひがし』を読んだ。
西ひがし (中公文庫)
前の二冊ですっかり森三千代のファンになってしまった私は、単身帰国の途上、またしてもシンガポールあたりで引っかかってしまっている金子光晴にちょっと腹立ったりしてしまう。こういうあたり、いつもながら自分の俗物ぶりを突きつけられる気がする。つまり、自分の倫理観なんて、突き詰めていくと世間から排除されたくないという小市民めいた願望に過ぎない。その点、後から追いついてきた森三千代は、あっけらかんとしたもので、自分もきっちり若い男ともめごとをもちこんでくる。
小市民を尻目に詩人は力強い再生を遂げる。蘇った詩とともに、いよいよ剣呑な戦争の時代の日本へ帰っていく。
同時代の詩人、伊東静雄の運命とは対照的だ。伊東静雄の詩は20代の頃からけっこう自分の深いところに刺さってきたと思うので、金子光晴という詩人は、今になって新しい視点を突きつけてくれている。
大正デモクラシー関東大震災で終わった後、生き延びた詩人は案外少なかったのではないか?島崎藤村北原白秋萩原朔太郎は、まるで申し合わせたかのように1942〜43に相次いで死んでいる。中原中也はもともと伊東静雄の敵ではないし、金子光晴だったんだ、伊東静雄の見るべき相手は。三島由紀夫なんかじゃなくて。
金子光晴に目を向けさせてくれたのは、阿部謹也の『世間とは何か』だった。「金子光晴を見ろ」という意味はよく分かった。「世間がどうした」という生き方である。そして、奥さんの森三千代もまさにそういう女性だ。『青鞜』の時代、こういう女性も多くいたのかも知れない。だとしたら、まだ存命かも知れない彼女らにとって、世間の目を意識して窮屈に生きている今の私たちは、きっとちゃんちゃらおかしいことだろう。