植木等の親父さん

夢を食いつづけた男―おやじ徹誠一代記 (朝日文庫 う 3-2)

夢を食いつづけた男―おやじ徹誠一代記 (朝日文庫 う 3-2)

詩集 「三人」

詩集 「三人」

二週間休みなしで働いたあとの休日に、疲れているといっても嘘にはならないだろう。しかし、ほんとに疲れていたのかどうか、自分では実感がない。ただ、これといった計画もないので怠けてしまっただけかもしれない。
疲れていたことにしてもいいのだが、植木等の親父さんの一代記を深夜まで(というか朝方まで)読みふけってしまった。読書を中断して早起きするほどの計画もなかったわけ。朝の窓から見える屋根の上には雪瓦。だから、どこかへ歩いてみようかという気もちが湧いてもいいはずだった。それが起こらなかったことをさして、疲れていると表現すれば、できるかもしれない。
植木等のお父上が浄土真宗の僧侶で、戦時中に治安維持法違反で投獄されていたことは知っていた。そのへんの詳しいいきさつが、この本に書かれている。しかし、私がこの人に興味を覚えたのは、息子が「スーダラ節」を歌うことになったとき、「この唄は親鸞聖人の教えに通じる」といった植木等の思い出話である。知性がしたたかで、ユーモアがある人だとわかるエピソードだ。

戦争熱が高まっている頃、檀家の人が寺にやって来て、「召集令状がきました。留守宅を、よろしくお願いします」などと挨拶することが、ちょいちょいあった。おやじは、そんな時に、こういった。
「戦争というものは集団殺人だ。それに加担させられることになったわけだから、なるべく戦地では弾のこないような所を選ぶように。周りから、あの野郎は卑怯だとかなんだとかいわれたって,絶対、死んじゃ駄目だぞ。必ず生きて帰ってこい。死んじゃっちゃあ、年とったおやじやおふくろはどうなる。それから、なるべく相手も殺すな」
戦争になると、みんな異常になる。ニュース映画で、褌一丁の兵隊が日本刀を振りかざして敵の戦車へ向かって突進していく姿を見たことがある。ああいうことをする状態は異常だし、ああいう姿を勇敢とか何とか讃える精神状態も異常だ。しかし、異常だ異常だとはいっても、周りで皆が異常になった時に、それを異常というのは、たやすいことではない。おやじは、その難しいことをやったと思う。

ただ、これは本当に難しいことであったと思う。特高警察の拷問については、あまりくわしく触れられてはいないが、逮捕そのものが理不尽であるのに、それに続く拷問などに耐え続けるのは、弱い知性のできることではない。
指導者としてかかわった朝熊闘争も、関係者が根こそぎ逮捕され、また、戦争の激化もあって、立ち消えになった後、残された一家も、ついには町を追われることになった。
こうして見殺しになってきた活動がどれほどの数に上るのだろうか。そういう人たちの礎の上に今があると信じていけない理由もないだろう。間違っても靖国神社には祀られていないはずである。
晩年、「割り切れぬまま割り切れる浮世かな」と揮毫したそうである。また、
「等、俺はあの世に行っても、親鸞に合わせる顔がない、俺は恥ずかしい、恥ずかしい」と泣いたという。
もう一冊は、先日NHKで特集されていた、金子光晴親子による私家版詩集「三人」。
金子光晴については『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』をぜひ読んでほしい。
番組で初めて写真を見たが、夫人の森三千代はうわさにたがわぬ絶世の美女だった。そして、見た目にたがわぬ恋多き女でもあった。
金子光晴は森三千代に対して、いつも一歩引いているようなところがあったように思う。それが魅力でもあるが、三千代にとっては少し物足りない思いをしていたかもしれない。全くの推測である。
金子光晴はわが子を松葉で燻して喘息の発作を起こさせ、兵役を逃れさせた。「君のために死にいく」みたいなまぬけなことを、わが子に強いなかった。一億人が異常なことをしているからといって、自分たちまでそれにしたがうことはない。しかしながら、これもめったに出来ることではない。
一家が山中湖畔に隠れ住んでいたころ、面識のあった旅館の娘さんがテレビに出ていた。徴兵逃れについてはうすうす気がついていたようで、「乾さん(金子光晴の息子)は、ずいぶん声ががらがらだ」と思ったそうだ。こんなに時がたっているのに、それについて語るときに、いまだに声を潜める感じなのが不思議だった。
あの戦争がなぜあそこまで拡大したのか?いろんな理由がつけられるだろうが、一言で言うと、役人はものごとを始められても、終らせ方を知らないのである。ダムや道路が無駄に増え続けるのも同じことである。頭のない蛇と同じで、動きが止まるまで切り刻むしかない。この期におよんで、まだ役人の言葉を真に受けている人がいるのは信じられない。多分、その人もおこぼれに預かっているのだろう。
予想としては、私は多分生涯結婚しないと思うが、結婚している人が、みな家族愛に満ちているかというと、そうとも限らないのだろう。自分達の次の世代のために納めている年金や税金が役人に食い物にされても、怒りもしないのだから。