東京ステーションギャラリーで佐伯祐三展がやってる。とっくに観に行ってたんだけど、撮影できない展覧会は書くとっかかりがなくて、ついきっかけを失うのを、おぎやはぎと山田五郎さんのぶらぶら美術館で取り上げているのを見て、そうだわってなった。
私が泣いた展覧会は佐伯祐三と畠山記念館の伊賀耳付花入《からたち》だけである。美そのものに打ち震えるような感受性の待ち合わせはない。感情が揺さぶられるのはストーリーがあるからだ。
第一次世界大戦後のバブル景気でパリに溢れていた日本人画家の中でものになったのは、つまるところ藤田嗣治と佐伯祐三だけだった。藤田嗣治の方はそれより早くから来ていたわけだから、同世代でものになったのは佐伯祐三だけだったというべきか。
藤田嗣治の本を読んで驚いたことがある。当時、藤田嗣治を頼ってパリに来ていた日本人画家たちは、藤田嗣治の家で食事を奢ってもらった上に皿洗いまで藤田嗣治にさせていたそうなのだ。いかにも成金時代の日本人らしい態度で悲しくなった。藤田嗣治はこれに比べるとはっきりと明治の日本人なのだった。藤田嗣治の悲劇は五大国とか言ったバブル時代に日本を離れていたことだったと思う。藤田嗣治の知らないところで何かが変わっていた。
佐伯祐三は藤田嗣治を頼らなかった画家のひとりだった。当時は、若い画家や作家が次々と肺結核で亡くなった。パリに渡ったときにはすでに肺結核に侵されていた佐伯祐三は自分は33歳で死ぬと周囲に語っていたそうだ。実際にはそれより早く30歳で亡くなった。
30歳で亡くなった上に、戦災で作品の多くが焼失したにもかかわらず、今日見られるような多数の作品が残っている。事実、一日一枚以上のペースで作品を仕上げていたそうだ。
ヴラマンクとの逸話はあまりにも有名だが、有名すぎて詳細がよくわかない。まず「アカデミズム」と罵られた絵はどんなだったんだろうと不思議に思う。絵が浮かばないのだ。佐伯祐三がヴラマンクを知らなかったはずもなく、ヴラマンクに絵を見せるのに、いわゆるアカデミックな(ジェロームのような)絵を持参するはずはないと思うのだ。今回のテレビではセザンヌ風の自画像をその例に挙げていたが、セザンヌ風がアカデミズムだろうか?。この辺りが長年の疑問なのだ。ただ、やせぎすの佐伯祐三が巨魁のヴラマンクに怒鳴られたら相当こわかっただろうと思う。
その直後に描かれたと言われているのもまたあまりにも有名な顔を削り取った自画像なんだけど、その後の佐伯祐三の独特のスタイルを築き上げていく、その座標のゼロにあたるこの自画像に、画風が似ている未発表作品が多数発見されたことがあった。佐伯祐三贋作事件で、これがまた謎のままなのである。
ネットで検索してみても例によって正しいことは何もわからない。ヴラマンクのフォーヴとも違い、その後の佐伯祐三の闊達な線とも違う、この自画像の頃の絵が他にもいくつかあったとしても、多作な佐伯祐三のことだから不自然ではない。しかし、他のどの時期とも異なる画風であるために真贋が見極め難いとも思われる。が故に、贋作は作られやすいともいえる。
また、出どころが不自然でもある。「佐伯祐三の心理カウンセラー」?。その頃に心理カウンセラーなんている?。どういうこと?。
しかし、これが佐伯祐三が迷っていた時期だけに全くウソとも言い難い。
真贋いずれにせよ、佐伯祐三の名作にはあたらないのだけれどもモヤモヤするのは事実なのだ。