佐伯祐三

横浜そごう美術館で「佐伯祐三展」が始まっている。
2005年秋、練馬区立美術館で、心ふるわせた佐伯祐三だが、ヴラマンクマチス、ボナールと、不思議に人生が交差した画家たちの絵を続けて見た後、ふたたびあいまみえて、どのような印象を受けるか危惧していた。
しかし、杞憂に過ぎなかった。佐伯祐三の絵の若々しさは、パリで客死した30歳という画家の年齢ではなく、絵自体が持っている力だったのである。
佐伯祐三の絵は速度を持っていて、目や脳に咀嚼する暇を与えず、心に入り込んでくる。
まず線の美しさ。
佐伯祐三の特徴のひとつである、画面に踊る広告や新聞の文字は、建物の壁や屋根の稜線、あるいは窓枠など、重力のベクトルを感じさせる太い線を通奏低音にたとえれば、ピアノの即興のように、軽やかに、そして凄みを感じさせる速さで流れていく。
それに加えて、カフェに無造作に置かれた椅子やテーブルの脚、衝立の上枠、樹木の枝などの曲線がある。
それらの線の競演の背後では、時に濃くなり、あるいは薄くなって、文字通り画面を盛り上げる色彩のブラスが鳴っている。
たとえば、「ヴェルダン」や「ピコン」。
驚異的な速度で次々に生み出されるこの頃の絵は、見るものを魅了する。何度でもリクエストしたくなるキャッチーなヒットメドレーだ。
しかし、画家自身は、自分の絵が手馴れた仕事になることに不満を感じていたのか、文字を捨てて、新しい境地を目指していた。一旦、自在さを獲得した線は、文字という束縛を逃れたかったのだろう。
たとえば、どちらもすばらしい絵だが、同じくホテルのレストランを題材に取った1927年のオテル・デュ・マルシェと1928年のオテル・グラン・モランを比較すると、そのへんの違いが分かるのではないだろうか。
ちなみに、オテル・グラン・モランのレストランを描いた「カフェ・レストラン」について、夫人の回想では、「出来上がった絵を見たとき、主人は驚いて、この画家は狂人ではないかと言った」のだそうだ。
モランの村で描いた「村と丘」や、モランを去ってパリに帰る頃に成った「煉瓦焼」は、そういう新境地だったと思う。
残念ながら、このモランの旅の後、急速に病状が悪化し、佐伯は死んだ。
頭に引っかかっているのは、佐伯がパリに着いた半年後にヴラマンクに「アカデミック」と痛罵された裸婦は何だったのかということ。
それは、松坂がイチローに投じた初球のカーブだったのではないか。プレイボーイのインタビューでイチローは、桑田にあって松坂にないものは、「覚悟」だと語っていた。
「覚悟」のないカーブを投じた佐伯に、ヴラマンクは怒ったと、私は思う。
1925年の秋から冬にかけ、佐伯は、ヴラマンクの写生地をめぐって描き続けた。その数は80枚にも及んだという。現存するその頃の絵は、たしかに、ヴラマンクの模倣のようだが、「ノートルダム」の裏面に残れされた、オワーズ河周辺風景の激しく傾いだ建物に、すでに後の佐伯祐三の姿が芽吹き始めている。
顔をナイフで削り取った「立てる自画像」は、もう一枚の「ノートルダム」の裏面にある。