『対峙』

 アメリカでの原題は「MASS」という。英語に堪能な町山智浩がラジオで言ってたけど、集団乱射を示す「mass shooting」と、カトリック教会での弥撒「Mass」をかけているそうだ。キリスト教文化がない日本でこれをどう邦題にするかにはかなり頭を絞ったと思う。
 その意味では邦題の「対峙」は、いかにも日本らしいと言えるのかもしれない。この映画は、ある高校で起きた集団乱射事件の加害者の親と被害者の親の対話劇なのだけれど、こういう対話自体が日本には根付いていない。家父長的な権威主義が、対話で論理的に物事を決めていこうとする姿勢を阻んでいる。結局、対話のないところには民主主義が生まれるはずもないのだが、教育の現場で教師と生徒が対話することすら何か非日常的、くだけていえば、生徒が教師に歯向かってると思われるような状況、部下が上司に、生徒が教師に、絶対服従することが正義だと考えている人が多数派である国で、制度上の民主主義をどうこうしてみたところて何も変わらないのは当然すぎる。この国では誰も議論せず、その結果として言葉に信頼がない。
 今でもはっきり憶えているが、安倍政権で菅官房長官が沖縄の基地移転について記者会見していたとき、赤土がドバドバ海に捨てられている写真を示しているにもかかわらず、菅官房長官の答えは「そういうことはないと聞いております」だけ。考えてみるとそういう国で政治を動かそうとすると暗殺かクーデターしかないのは当然なので、山上徹也が安倍晋三を殺したのはやはり正しい行為だったのである。民主主義が機能していない国の政治家は殺す以外の方法で動かすことができない。
 『三島由紀夫vs.東大生』みたいな映画があったが、そこでだったか、その他のインタビューだったか忘れたが、三島由紀夫は彼自身を「反知性主義」と語ってしまっている。反知性の人間に対話はできない。三島由紀夫が対話以外の方法を選んだのは至極当然だった。三島由紀夫も、おそらく東大生の側も、対話しながら、言葉を信じていなかった。
 近年、まともに言葉を発した政治家は小泉純一郎だけだった。彼の意見に反対であろうと賛成であろうと、そのどちらの側の人間も、言葉で戦おうとはしなかった。何を念頭に置いているかというと、その後の麻生太郎小沢一郎の態度で、彼らには言葉の持ち合わせがなかった。そういうわけで、日本では、2組の両親が対話する、というそのこと自体がタイトルとして成立してしまう。
 この映画は舞台劇の翻案なのかなと思った。3幕の舞台劇として成立する。何なら舞台劇として観てみたいと思ったほど。だが実は、フラン・クランツ監督のオリジナル脚本で、しかも、これが監督のデビュー作だそうだ。
 舞台劇で観てみたいと思ったのは、もし舞台化してもテーブルと椅子以外の舞台装置もいらない。途中までどちらが被害者の親で、どちらが加害者の親かすらわからない。被害者、加害者が生きているのか死んだのかさえなかなかわからない、説明的なセリフの一切ない、ソリッドな対話劇で、だれるところがない。
 映画の内容に触れるのはやめておこうと思う。町山智浩さんもたまむすびの紹介コーナーで、先ほどのタイトルのダブルミーニング以外しゃべらなかった。言葉を尽くしても、多分これは観ない人は観ない、観る人は観るというタイプの映画かと思う。
 キネマ旬報ベストテンの文化映画部門の第7位に『牛久』が入っていた。こういうあたりが結局キネマ旬報が信頼できるところだと思う。私個人は『牛久』は観たけど、『マイ・スモール・ランド』は観なかった。ドキュメンタリーで実際の証言を聞いた後にフィクションを観る気にならなかった。
 しかし、フィクションの力は対話の力なんだということを改めて認識させられた。事実としてはフィクションであっても、言葉はリアルでありうる。だからこそ言葉が力を持ちうるわけである。
 日本人の対話という意味でもうひとつ別の映画を思い出した。『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』だ。テロと対話はやはり表裏一体なのだろう。


www.youtube.com


www.youtube.com


www.youtube.com