ドン・フェルナンドの酒場で

ドン・フェルナンドの酒場で―サマセット・モームのスペイン歴史物語

ドン・フェルナンドの酒場で―サマセット・モームのスペイン歴史物語

スペイン人は、自分たちのなかに二つの側面があることをつねに認めてきた。その理由で(少し時代があとになってからではあるが)、セルバンテスの不朽の小説を、自分たちの性格の真の典型として受け入れているのである。彼らは、憂い顔の騎士であると同時にサンチョ・パンサである。おそらく黄金時代ほど、このことが強く意識されたことはなかったろう。スペイン人たちはアメリカ大陸の大帝国を征服し、ヨーロッパ中がスペインの国力を認めていた。それでいて彼らは飢えていた。つねに飢えていた。ある力が彼らを動かして、むこうみずな世界征服の冒険や、それよりさらに危険な精神の冒険へとかりたてた。そうせざるをえなかったから、冒険に命を賭したのである。しかし彼らの心の奥には、いつもそれがくだらぬ戯言ではないか、という不安な気持ちがあって、満腹と眠りのためのベッドが、唯一の現実だったのである。

モームのこの本は1935年に出版され、その後改訂版が1950年に出されている。次のような言葉があるのだけれど、どういう意味だろうか?

・・・近代人がエル・グレコを非常に高く評価するのも、異とするにあたらない。もし彼が今日生きていたら、ブラック、ピカソ、フェルナン・レジェの後期の作品におとらず抽象的な画を描くだろう。そして、原罪の形式的意匠に対する関心は、一六世紀にバロック美術を生んだのと同じ原因に帰することができるだろう。崇高なものを恐れて、われわれは装飾の掛算に逃避するのである。

その理由は、現在の世界が、「対抗宗教改革」の世界のように陰鬱で、不信心を許さないからである。ヴィクトリア朝時代の人々の心をとらえ、精神に無限の地平線を約束するように思われた大問題は、われわれにとっては欺瞞である。真、善、美などについて語る連中は軽蔑される。われわれは偉大さを恐れる。そしてわれわれは、自由という貴重な価値を失ってしまった。世界全体を通じて自由は死んだか、瀕死の状態にある。自分の個性を失い、また教団のなかにそれを見出したイエズス会のあらたな信者のように、われわれは自我を棄てて、国家のなかにふたたびそれを見出すよう要請される。だれも大きな問題に取り組もうとする者はいない。異端者が正統になってしまったので、問題などどうでもいいのである。ただかわいいもの、器用なもの、おかしいものだけが培養される。

セルバンテスはドン・キホーテの毎日の食事について詳しく述べているそうだ。それによると、ドン・キホーテの土曜日の食事は「痛みと悲嘆」だった。これが何を指すのか、長年研究家の頭を悩ませてきたそうだが、結局、ベーコン・エッグのことであることがわかった。料理の名前はたしかにややこしいが、かといって「きつねうどん」は、やっぱり「きつねうどん」であってほしい。あぶらげうどんでは食欲がわかない。