「マジカル・ガール」

マジカル・ガール

 「マジカル・ガール」は、3月の公開からもうだいぶ日が経っているし、観たい人は観たんじゃないかと思う。有楽町のヒューマントラストだったかで、けっこう行列だったのを尻目に殺して、その日は、ニコール・キッドマンの「虹蛇と眠る女」てふ、オーストラリア映画を観たんだったが、どうにも散漫な演出というか、うまくミスリードしてくれないというか、邦題に騙された感じだった。原題は「STRANGERLAND」つって、まあありきたりなタイトルだった。
 なわけで、なんかはぐらかされた感じの「マジカル・ガール」だったんだが、踏ん切りがつかなかった訳は、それだけじゃなく、架空の日本のアニメ「魔法少女ユキコ」とか、長山洋子の歌が挿入歌だったりとか、ちょっと「オタク」というか、“nerd”というか、そういう雰囲気がただよってるなら、守備範囲じゃないなと思ってたのだ。現に、有楽町では、女装したおじさんがいたし。
 でも、そういうのとは違ったな。むしろ、オタクなのを期待してるとあてが外れるかもしれない。スペインの若年失業率は50%を超えているっていうのを思い出したし、なにより、サマセット・モームがスペイン人について何か書いていたのを思い出したのだが、あいにく、何て書いていたか思い出さないので、検索してみた。

スペイン人は、自分たちのなかに二つの側面があることをつねに認めてきた。その理由で(少し時代があとになってからではあるが)、セルバンテスの不朽の小説を、自分たちの性格の真の典型として受け入れているのである。彼らは、憂い顔の騎士であると同時にサンチョ・パンサである。おそらく黄金時代ほど、このことが強く意識されたことはなかったろう。スペイン人たちはアメリカ大陸の大帝国を征服し、ヨーロッパ中がスペインの国力を認めていた。それでいて彼らは飢えていた。つねに飢えていた。ある力が彼らを動かして、むこうみずな世界征服の冒険や、それよりさらに危険な精神の冒険へとかりたてた。そうせざるをえなかったから、冒険に命を賭したのである。しかし彼らの心の奥には、いつもそれがくだらぬ戯言ではないか、という不安な気持ちがあって、満腹と眠りのためのベッドが、唯一の現実だったのである。

 「それがくだらぬ戯言ではないか、という不安」。モームらしいものの考え方やね。
 「マジカル・ガール」というタイトルは、ダブルミーニングになっている。バルバラという、いわくありげな美女が、友人夫婦の赤ん坊を抱いて笑い出すシーンがある。理由を訊かれると、
「窓から放り投げたらどんな顔するかと思って」。
 このバルバラと、元教師、ダミアンとの関係が、冒頭にちょっと挟み込まれるシーン以外、一切ふれられないところが、この演出の渋いところだ。
 結局のところ、全部、戯言なんじゃないかという心象は、日本人にも、案外、通じるんじゃないか。ていうか、戯言だろう。
 でも、この乾いた感じは、スペインを思わせる。国というより、土地が人に強いる感情みたいなことに思いが赴く。日本のアニメや歌謡曲は、異物感が際立っている。