マッチョな女

神田うのが「結婚しても今までどおり家事はしませーん」と言っていた。こどものころ、「将来の夢はお嫁さん」という同級生を「ばかじゃなかろか」と思っていたとも。多分、当人としてはジェンダーがらみのメッセージを発信しようとしていると思われるが、こちらに届くころには、格差社会がらみのメッセージに変わっているのが面白い。神田うのが炊事洗濯をするとは誰も思ってないでしょ。
フェミニスト自身が、どうもフェミニズムは滅びたんじゃないかと思い始めているらしい。男性の立場からすると、当初から感じていることは、フェミニズムは社会をどうしようとしているのかが見えにくい。そもそもそういうことじゃないのかもしれないが、世の頭の固い男性優位主義者は、自分達の考え方が健全な社会のメカニズムだと信じているわけだから、フェミニズムもその妄想に対抗する対案を提出する必要があったのではないか。
なぜか今、昨日読んだ「むくどり通信」の中に、パトリシア・コーンウエルの事が出てきたのを思い出した。日常、家に何丁もの拳銃を置いているそうで、「シートベルトを締めているようなものよ。暴力に対しては情け深くしているヒマなんてないわよ」ということだそうだ。パトリシア・コーンウエルはマッチョな女だ。彼女の描くケイ・スカーペッタは60歳になっても20年下の男に求愛され、ことに及ぶ。彼女らにとって女の勝利には男の愛を勝ち取ることも含まれていて、そこに疑念を挟む余地はない。いい女はかならず男に惚れられるのである。
酒井順子が「女言葉はどうやら消滅していくらしい」と書いていた。しかし、女らしさ願望はなかなか根強いように思う。たとえば、男はおっぱいの大きい女が特に好きじゃないと、誰が言っても絶対信用しない。背が高い女はかっこいい、か弱い女はうっとうしい、と言っても同じである。
これは女性に女らしくありたいという脅迫観念があるためみたいだ。ぶっちゃけ、男は女に女らしさを求めているわけではない。ぶっちゃけた話だから、よそでは言わないかもしれないけど、男は女に女そのものを求めている。
女が女らしくありたいのは何のためなんだろうか。あれは実に不思議である。成功恐怖とか。岡本綾子が肝心なところでかならずスリーパットするのは、まさに成功恐怖だと思う。
で、神田うのの話だったのだけれど、そうだ、なぜパトリシア・コーンウエルを思い出したかわかった。神田うのも女マッチョなのだ。躊躇せず引き金を引ける女にとってはフェミニズムなんてチャンチャラおかしいはず。それなのにフェミニズムめいた発言をするのが面白いのだろう。