渋谷ユーロスペースで、『この星は、私の星じゃない』という、最近の田中美津さんを撮ったドキュメンタリー映画があると知って観に行った。監督は吉峯美和という人。
たまたまだったんだけど、田中美津さんご本人が映画の後に登壇されて、女優の渡辺えりさんとトークショーという幸運に恵まれた。
田中美津さんに関しては、
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の2冊を読んで、この人、ただもんじゃないなと思っていた。
あいかわらず不勉強で、この映画で初めて知って、また、あいかわらずの独り合点で、勝手に腑に落ちたのは、このひとは、江戸っ子も江戸っ子、本郷の魚屋さんの娘さんだったのである。
「日本のリブが、輸入品でも借り物でもない、田中美津という肉声を持ったことは、歴史の幸運だったと思う。」と、上野千鶴子が上の本の中でも語っているけれど、ウーマン・リブは、フェミニズムではない、と、田中美津は言っているし、私もそう思う。上野千鶴子の、学者としての立場から言うと、ウーマン・リブは、第二波のフェミニズムの嚆矢なのだそうだが、そういう分析はinvalidだと思う。たぶん、上野千鶴子自身、そう思っているはずだ。
ウーマン・リブがフェミニズムと違う1つの根拠は、田中美津が、江戸前の魚屋であることだ。江戸っ子は、徳川時代に江戸に住みついた職人集団だが、中でも魚屋は、海洋民族としての太古からの生活にその根っこを持っている。それは「鯔背」と言われる価値観であるし、辰巳芸者の伝法さであり、勇み肌だった。
これはだから、フェミニズムなどという頭の学問ではないのだ。お尻を触られたら「何すんのよ!」とバシッとはたき返すのがウーマン・リブ、「それってセクハラと言って・・・」と解説するのがフェミニズム、と、戯画化してみせた田中美津の言葉を、上野千鶴子がパンフに書いている。その表現そのものがまさにウーマン・リブだと思う。ちなみに、上野千鶴子は富山の女で、富山の女は、米騒動を起こした女沖仲仕たちだった。この2人が気が合うのは当然だと思う。
話は少し逸れてしまうが、もう1人の海民のことが念頭に浮かばざるえなかった。月島に育った吉本隆明にとっての思想も、私たち海洋民の生活に根を張っていた。吉本隆明にピンとこない人がよくいるけれど、それはたぶん、この部分、親鸞、夏目漱石、柳田國男と、この国のuniquityについての感受性をキャッチできないか、それを認めない人たちなんだろう。吉本隆明と江藤淳は、お互いに認め合っていたが、このふたりの決定的なちがいは、江藤淳にとっての日本の歴史は、そのまま天皇家の歴史なのに対して、吉本隆明にはそれは、天皇家以前の海洋民の歴史である。これは、2人の対談でも語られていた。
話を戻す。もうひとつの根拠は、田中美津が針灸師であることだ。メキシコに渡り、現地男性とのあいだに一児をもうけて、未婚の母になって帰国した後、生活のために針灸師を始めたが、これが実にすご腕なそうだ。息子のらもんさんも針灸師だが、なかなか真似できないらしい。
飽くまで、身体にこだわっていて、歯の浮いたような話はしない。思想が身体性を失わないことは、最も重要だし、そして、それが、私が考えるところでは、フェミニズムとウーマン・リブの最大の違いだ。
今の田中美津さんは、「この子、は沖縄だ」というグループで、沖縄の基地問題に取り組んでいる。しかし、少なくともこの映画に現れた沖縄の人々には失望させられる部分もあった。特に、久高島のガイドさんは、ほとんどその辺の宗教団体の勧誘そのもので、ドグマティックっていうのはああいうのをいう。「あなた自身が光になって・・・」とか、悪気がないだけにタチが悪い。「ねぇ、おかあさん」と呼びかける距離の詰め方も嫌だった。もうひとり、田中美津さんに「内地でやってくれ」とクレームを言う男性にも違和感を感じた。「内地でやってくれ」?。
田中美津さん自身は、沖縄の問題は、それを放置してきた自分たちの問題だという意識で運動を始めている。女たちがウーマン・リブを起こしているのに、男たちは何故マン・リブを起こさないのか?という問題提議と同じだと思う。
しかし、私自身は、沖縄の人たちがどの程度、基地問題に本気なのか疑っている。前にも紹介したが、
ironna.jp
この記事には衝撃を受けた。自民党でも民主党でもなく、沖縄自身が沖縄を裏切る。結局、そのように失われていくものかもしれない。いちばん声高に「日本」を連呼した連中が日本を滅ぼしたのだし。
sexual abuseの件を避けて通るわけにいかない。幼い頃、田中美津さんの受けた、性的なイタズラの体験は、本人が「大したことではない」と思っていることまで含めて、私の体験そのものだ。そういう経験を女性しかしないと思ってるなら大きな間違いなのである。ふりかえって、自分がどうしてそういう経験をすることになったか、どうして自分の頭の上に石が落ちてきたかは、田中美津さんのいうように「たまたま」だと思わざるえない。渡辺えりは、それは理想論と言うのだが、そういうことではなく、そう思わないと生きていけない「たまたま」なのである。田中美津さんの著書のタイトルに『かけがえのない、大したことない私』という言葉がまさにその通りだと思う。
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どうしようもなく大したことないが、かけがえがないからどうしようもない。自分が一番大事だから、平等でありうる。しかし、たぶん、自分が一番大事だという人間を、人は低く見ようとする。そうして、自分を大事にしないことで、社会につながろうとするが、自分が一番大事でない人間が集まる社会は恐ろしい。
人がなぜ平等なのかといえば、人は皆自分が一番大事だからだという話を、田中美津さんは、相模原殺傷事件について話す機会で話していた。ウーマン・リブは、こんなふうに生活のごまかしのない言葉に根差している。これに比べれば、基本的人権などという言葉はごまかしにすぎない。
基本的人権という言葉がウソなのではない。しかし、それでは人に伝わらない。伝わらなければ言葉である意味がないのに、その正しさに安住しようとしている、その限りにおいて、ごまかしなのだ。その正しさは他者を断罪することしかできない。他者を切り捨てる言葉と他者に伝える言葉は真反対である。だから、まさにこのように、ウーマン・リブとフェミニズムは違うという言い方は、間違いであっても正しく、ウーマン・リブとフェミニズムは同じだという言い方は、正しくても間違ってる。
こんな具合に、間違ってる正しい言葉は、よく注意してみると世の中にはいっぱいある。