『流浪の月』に見る弱者論

 ジョニー・デップアンバー・ハードの泥沼の訴訟合戦が続いている。
 真実がどちらにあるのか知らないが、にもかかわらず、当初、ジョニー・デップの方がただ一方的に断罪されていたのは事実である。 
 一般的には、こう言うことを指してフェミニズムと捉えられているのもまた事実である。つまり、フェミニズムとは性別を変えたマッチョイズムにすぎない、と捉えられていて、一般にそう捉えられている限り、フェミニズムというイズムはもう失敗なのである。
 上野千鶴子フェミニズムとは、弱いものが弱いままで幸せになれる思想だというようなことを書くか言うかしていたと思う。しかし、そうは捉えられていないかぎり、フェミニズムはその名を捨てざるえないのではないか?。フェミニズムの名のもとに、事実があやふやなまま単に男性であるだけで一方が断罪されるのであれば、フェミニズムはもはやイズムとして終わっているのではないかと尋ねたい。
 そう思わざるえない記事を読んだ。

名誉棄損裁判中のジョニー・デップ、多くの性暴力サバイバーが彼を支持する理由

2022/06/06 12:21

 この記事を読むと、事実はどうでもよく、どうしても女性=被害者でなければならないと思っているとしかとれない。言うまでもなく、男性が被害者でもありうることを頑なに認めようとしないのが不思議。
 過去には、フェミニストのこうした態度が、慰安婦問題を硬直化させた。元慰安婦といえどもウソをつくこともあるだろう。そのウソが慰安婦問題全体の構図を揺るがせはしないが、慰安婦の証言を絶対視するフェミニストの態度が全体の構図を歪ませる。
 上のような文脈で「フェミニスト」と言う言葉を使っても違和感があるだろうか。もしないとしたら、事実においてフェミニストはこうした存在であるのだし、言い換えれば、フェミニストとはファナティックな女性上位主義者にすぎない。
 フェミニズムは失敗したのだ。フェミニズムはイズムになるべきではなく、ウーマン・リブという運動であり続けるべきではなかったのかと尋ねたい。
 フェミニズムの現状に男性が口出しすることさえフェミニストには我慢ならないことだろうから、これは置くとして、先の上野千鶴子の発言も「弱さ」を美化していないかなと疑問に思えてくる。
 ニーチェは「反キリスト」に「悪とは何か・・・弱さから生ずるすべてのものである。」と書いた。これをどう批判しようとも、少なくとも弱さは善ではない。
 だからこそ親鸞聖人は悪人正機と言った。弱いものが救われるとは言わなかった。弱いものが悪人であると認めながら、悪人が救われると言ったのである。弱さが美化されることはなかった。
 「流浪の月」という映画を観た。広瀬すず横浜流星が演じるカップルがまさに共にトラウマを抱えるDVカップルでこの描写がリアルでよかった。
 途中から、弱者論として観ていた私はオチにはぐらかされたが、弱者のリアルを観ることができると思う。


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