フェミニズムの現在

 フェミニズムの現在について私なんかが何かを語れるものではない。
 ので、まあとりあえず、はてなで「フェミニズムの日本語訳を教えてください」と質問してみた。
 と言っても、もちろん、辞書を引けば出てくる訳語を聞いているのではなく、日本語の文脈の中でもはやカタカナ語として定着してしまった「フェミニズム」を敢えてふたたび外来語として捉えなおして、その再定義ができないかと考えたわけだった。
 奇特にも回答していただいた方々には感謝しかない。一応リンクを張っておきます。

q.hatena.ne.jp

 質問を閉じた後も取り留めなく色々と思いを巡らせている。

 お答えのひとつに

「彼はフェミニストだからね」といえば、単に「女性に親切な男だ」と
通じます。いまどき、ロマンチストを浪漫派主義者と書く人が絶滅した
ように、フェミニズムを漢字に置換える必然性はないと思います。

というのがあって、スピードワゴン小沢一敬のことを思い出した。
 ところで、余計なことを一言書いておくと、人名に「さん」づけするのは、知人に限られるのが常識とされている。知人でもないのに「さん」づけするのは失礼にあたる。私もこのブログの最初の頃はその常識に沿っていたが、最近は同調圧力に負けて著名人に「さん」づけすることもある。常識人に軽蔑される方が、バカにからまれるよりマシ。
 で、小沢一敬さんのエピソードで、ゴットタンの「マジギライ1/5」という企画に出た時のこと。マジギライ1/5ってのは、あるタレントを嫌いって言う5人の女性がそのタレントを散々に痛罵する、その中のうちホントにそのタレントを嫌ってる1人は誰かを当てるクイズ。
 罵倒される側のタレントが言い返すのが見せどころなんだが、小沢一敬は一言も言い返せず、この回の収録がまるまるボツになってしまった。どうしても女の子に悪口が言えないって泣いたっつう話だ。
 つまりこういうエピソードをさして「フェミニスト」というわけだが、今、小沢一敬を攻撃してる人たちも「フェミニスト」だと思うのだけれどどうだろうか。私の中では、今回の事件があったからと言って小沢一敬フェミニストのイメージは消えない。
 イメージとして語られるフェミニストはそんなものだろう。だとするとフェミニズムってイズムは一体何なんだって話になりませんか?っつう話。
 日本語のカタカナ語はイメージのみで語られてやがて忘れられていく。「ぱいぱいでか美」改め「でか美ちゃん」が吉田豪YouTubeに出てて「これからフェミニズム的な発言もしていきたい」みたいなことを言ってた。いいんだけど何か言葉がすり減ってく感じはある。
 「『男女同権運動』だとウーマンリブフェミニズムの違いが」わからないというと「『ウーマンリブ』、ものすごく久々に目にしました。21世紀になって初くらいですね。たぶん。もはや死語なんじゃないかと思います。」
という人がいた。
 田中美津さんはまだご存命だし、ドキュメンタリー映画『この星は、私の星じゃない』は2019年だし、どうなんだろうとは思うが、「ウーマンリブ」が死語ってのが一般的にホントなら、「フェミニズム」の方も死語になる日も近い気がする。
 長野県飯山で開かれた第一回全国リブ大会を取材した福島菊次郎の写真。

第一回全国リブ大会
第一回全国リブ大会

 福島菊次郎はこう書いている。
「・・・田中美津は、だから男たちに向かっていつも“あなたもいっしょに「男のリブ」をやりましょう……”と熱い想いをこめたラブコールを送りつづけた。(略)「グループ闘う女」はこうして創世紀のリブの運動に多くの役割りを果たして七七年に解散したが、現在に到るまでその運動を放棄した女はひとりもいない。男たちの運動を顧みて、“負けた”という、さわやかな悔恨がのこる。」
 彼らがアクティビスト(活動家)であったことはまちがいない。

 フェミニズムに翻訳は必要ないんだという人もいて、まあそれが現在のフェミニストの一般的態度だろうと思われる。
 その人が紹介されてた1960年代の中国人が言った、漢字なんてものは将来博物館で見るようなものになるだろうという発言が面白かった。
 漢字なんてなくなるよって言ってるわけだが、その一方で中国の政治はいったいどうなってる?。習近平って人がどうやって中国の代表に選ばれてるのか私たちは知りようもない。天が選んだとしか思いようがない。漢字なんてなくなるよとうそぶきつつ、文化は漢王朝の頃から一ミリも変わらない。相変わらずの中華思想で周辺民族を平気で差別している。
 つまりフェミニストは文化をオミットしている。文化を無かったことにして、ジェンダーという古くから社会に根を張る文化を変えられるのか?。
 容易に連想されるのは吉本隆明の「転向論」だ。吉本隆明は、転向を「日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間に起こった思想転換をさしている」と書いている。
 「転向の問題は、(略)おおくイデオロギー論理の架空性(抽象性ではない)からくる現実条件からの乖離の問題ににしかすぎない。」
 「思考自体が、けっして、社会の現実構造と対応させられずに、論理自体のオーチマチズムによって自己完結する」
「日本の社会構造の総体によって対応づけられない思想の悲劇である。」
 フェミニズムの現在はつまり現実に対峙することをやめてしまった思想遊戯にすぎないみたいである。