『エマニエル夫人 4K レストア版』

 レディズムvs.フェミニズムって考え方もあると思う。フェミニズムの対義語がマッチョイズムだとしたらダンディズムに対立する概念としてレディズムはある。フェミニズムは、つまり、マッチョイズムなのである。
 おそらくリベラリズムが力を失っていく同じ道筋を通ってフェミニズムは腐っていくだろう。
 たとえとして「自分探し」なんて言葉を思い浮かべてみるのもよい。その言葉がいまだに何かの価値を持っていると感じている人たちをリベラリストと呼ぶことができる。
 つまり、「個人」と「社会」を対立概念としてしか捉えられないので「自分探し」の闇に堕ちてしまう。
 社会から切り離された個人などというありえないものを探して人生を棒に振るのがリベラリスト(というか、いわゆる「リベラル」)なのである。
 前に、バービー・フェミニズムって戯言を書いたが、パンツを脱いだらソフビのようなペロンとした股間しかない人間がいたとしたら、男女を問わずそれこそまさにフェミニストだろう。
 彼らはジェンダーフリーどころかセックスフリーで、生涯を聖僧として暮らすのだ。
 『エマニエル夫人』が50周年だそうで、なにかしら驚きを持って観に行った。
 FANZAでAVを見まくってる男に、50年前のセンセーションがどのように映るかっていう生体実験に近い。
 結果から言うと、50年後の今となっては、ポルノと言える描写は皆無だった。良くも悪くも、むしろ、フランス映画らしい哲学的実験映画に近かった。むしろ、生硬と言ってもいいほどだ。これをポルノとしか捉えられなかった50年前の社会こそ笑いぐさだ。
 舞台がタイだということも初めて知った。そしてタイが舞台に選ばれたはっきりとした意図も感じられた。ビジュアルからも明らかに非キリスト教文化圏だとわからなければならなかったからだろう。
 思い返してみれば、ウーマンリブと性の解放はセットだったはずではなかったのだろうか。性の解放はどこに行ってしまったのだろうか。
 ダウンタウンの松ちゃんに裸で追い回された程度のことを「性加害」って。だいたい何だその「性加害」って言葉は。バカバカしい。
 エマニエル夫人は男に追い回されて笑ってる。追い回させてやればいいじゃん?。そうでしょ。
 カトリーヌ・ドヌーブや女性作家などフランスの女性100人が、「#Metoo(私も)」運動について、「ピューリタニズム」であり男性への憎しみにあおられたものだとする批判をルモンドに連名で寄稿したのを思い出した。
 私たちは男であり、女であり、人間であり、もっと色々言えるが、例えば、黒人だったり、白人だったり、日本人だったり、バイク乗りだったり、撮り鉄だったり、色々なのだ。
 「ビューリタニズム」が振り回す正義感は、最後には必ず巨大な暴力を結果する。何度も繰り返してるのにまたやってる。今度はフェミニズムと名乗ってる。放置するとろくなことにならないと警告させていただく。ま、誰も聞かないだろうけどね。

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『エマニエル夫人 4K レストア版』
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