『ウーマン・トーキング』『最後の決闘裁判』『山女』の連想

 フランシス・マクドーマンドがプロデュースした『ウーマン・トーキング』。サラ・ポーリ監督。制作総指揮はブラッド・ピット率いるPLAN B。
 これは、ボリビアの「メノナイト(メノー派)」と呼ばれるキリスト教徒のコミュニティで、2005年から2009年にかけて実際に起きた集団レイプ事件を基に、舞台をアメリカに移して描かれている。
 ほとんど産業革命以前の暮らしのように見えるが、映画内でも合衆国の国勢調査のトラックが登場するので、はっきりと2010年であることがわかる。
 ただ、このメノナイトというキリスト教コミュニティは世界中にあるそうで、実際、この映画の原作者Miriam Toews(発音はテーヴズ?)は、カナダのメノナイトコミュニティの人だそうだ。
 閉鎖されたキリスト教コミュニティで、家畜用鎮静剤を使ったレイプが発覚する。加害者の数も被害者の数も正確にはわかっていないそうだが、加害者は、だいたい10名くらい、被害者は少なく見積もっても100名を大きく上回ると見られている。
 町の警察に逮捕された犯人たちを男たちが保釈しに出かける、その二日間で、女たちがどんな決断を下すかを描いている。
 実際の事件に対する「想像された返答」と原作者も書いているように、理想化された対話劇と言っていい。
 映画で言えば『対峙』のような、無差別集団銃撃事件の加害者と被害者の両親が対話するとしたらどうなるかというシミュレーションもそうで、これは、プラトンの対話篇にまで遡る思想の原型だと言えるだろう。
 こういうの、経験的に言えば、日本人は苦手だろうと思われる。論理的に議論して、結論を導き出して、それに基づく行動を起こすってことが、なんとなく苦手。なんとなく結論を出したくない、出したとしてもどちらにでも取れるようなニュアンスを残しておきたい、そうしておいて、後からなし崩しにしたい。
 日本人の、少なくとも、日本の役所の思考回路と行動原理は例外なくそうであるようだ。で、それは国際的には通用しないので、しまいには、自暴自棄な暴力に走るか、無条件に言いなりになるか。具体的に言えば、戦前の関東軍のように戦略もなく暴走したかと思えば、戦後は親米右派に掌を返す。そんな事を繰り返しているだけ。
 これはいつからそうなったかというと、決してもともとそうだったわけではなく、明治以降だろう。つまり、東洋的な教養を備えた漱石や鴎外といった人たちが主流派にならず、西洋文明(と彼らが思ったもの)を無批判に受け入れて、東洋文明(と彼らが思ったもの)を無批判に否定する側と、日本文化(と彼らが思ったもの)を無批判に賛仰し、西洋文化(と彼らが思ったもの)を無批判に否定する側に分かれて罵り合ってからだろう。
 もっと具体的にいうと、私に言わせれば、そもそも靖國なんて、東洋文明でないのはもちろん、日本文化ですらない。にもかかわらず、靖國を否定すると「反日」ってことにされてしまうわけで、議論にならない。議論にならないから、ここからは、どうやっても民主主義は生まれない。そういう観点からすると、斎藤法務大臣の「可能と言ったのは不可能の言い間違いでした」って発言と、安倍晋三殺害と、どっちがテロなのか。どちらが社会にとって有害で破壊行為なのか。
 話が逸れたけれど、つまり、こういうややこしい議論を嫌いな人は見てもしょうがない映画である。『対峙』の場合もそうだったが、本質的にキリスト教徒とは何かという、彼ら自身のアイデンティティの問い直しがその根底にあることも間違いない。「レイプされたんでしょ?。警察に逮捕してもらえば?」とか、「気に入らないなら出て行け!」とか、そういう発想の人には退屈な映画である。
 問題は「自分たちが自分たちであるってことはどういうことか」であって、難民のことは自分たちの問題じゃないじゃないわけ。自分たちの役人が人一人殺したのに、何とも思わないでいられる、そんな国はめずらしい。アメリカでもフランスでも暴動が起こってますけどね。
 そんなわけで、女たちは対話し、結論を導き出し、行動に移す。2010年に読み書きでない女性たちに何ができるのかむずかしいとは思うけれども。そういうことに感動する人が結局、映画とか観るんでしょうね。

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 Amazonプライムで『最後の決闘裁判』も観た。
 リドリー・スコット監督。ベン・アフレックマット・デイモンの盟友コンビにアダム・ドライバー
 これがまたレイプの話なんだけど、いわゆる「羅生門スタイル」というのか、マット・デイモンアダム・ドライバー、ジョディ・カマーの3人の視点でストーリーが描かれる。
 これが面白いのは、西洋の騎士道の価値観からすると、マット・デイモンの行為は「勇敢」であり、アダム・ドライバーの行為は「恋愛」(騎士道的な)であるはずだし、彼ら自身そう信じて疑っていないが、観客には、ただの残虐行為とレイプにしか見えない、描き方のうまさ。
 今でも、これを甘い宮廷恋愛劇に、なんならポルノチックにさえ描くことはできるだろうし、血湧き肉躍る騎士の英雄譚に仕立てることも可能だろう。
 ありがちなマッチョイズムの否定だけでなく、レディズム(というとダンディズムの対義語になってしまうが)というか、中世の貴婦人が主役だった恋愛至上主義的な女性観も同時に否定しているのが面白い。不倫こそが貴婦人の嗜みであった時代が実際にあったわけで、不倫というだけで殺人事件並みに大騒ぎする今の風潮が馬鹿馬鹿しくなる。
 文化はコロコロ変わる。文化を言い訳にはできない。明治維新の頃には、西洋諸国はキリスト教文化の押し付けが文明化だと考える間違いを犯した。『最後の決闘裁判』のような映画を観ると、少なくとも「キリスト教優位主義」のような考え方がいかに間違っていたかと考えている人たちがちゃんといることがわかる。
 キリスト教徒が「市民社会」という場合、その市民にユダヤ人が含まれていたかどうか、私たち日本人が含まれているかどうかは、注意する必要がある。キリスト教にとってユダヤ人差別は正義でもあったことは否定できない。少なくとも、キリスト教社会においては間違いなく事実だろう。そういう時にうっかり市民社会なんて口走ってしまう人たちがいるのにはがっかりする。
 本来なら日本はそういう多様化のキーマンであるべきだろう。だが、明治以降日本は西欧の帝国主義の列に加わってしまった。そのために西にも東にも居場所がない。日本における右と左のもつれ、東と西のもつれについては、少なくとも自覚すべきだろうと思う。

 『山女』はおっそろしく貧乏くさい映画。柳田國男の「遠野物語」みたいな世界。明治以前の日本の農村がみんなこうだったかどうか疑問に思うが、それよりも、今、日本人の原風景にこういう世界があるということの方が問題だろうと思われる。
 危機に対して現実的な解決策を持たず、弱者に責任をなすりつけて、狭い社会のヒエラルキー以外の価値観を持たない。
 この映画は、日本の農村の原風景を描いているようでありながら、実は、そういう社会の外側が実際にありえた、近代以前に対する遠い憧れを描いている。社会の改善を諦めて、社会と無関係でありたいという欲求の現れが、山女(山田杏奈)の美しさによく出ている。山男が言葉を持たないのは象徴的。
 実のところ、描かれているのは現実逃避に過ぎないって点が『ウーマン・トーキング』と大きく違う点だろう。
 ちなみに『逃げ切れた夢』の監督、二ノ宮隆太郎が重要な役で出ている。実はそれで観に行った。『ドライブ・マイ・カー』の三浦透子も出てる。永瀬正敏森山未來山中崇品川徹、白川和子、でんでん、川瀬陽太赤堀雅秋とキャストは超豪華。


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