「神様はバリにいる」、『闇の中の祝祭』、『悟浄出立』

knockeye2015-01-31

闇のなかの祝祭 (講談社文庫)

闇のなかの祝祭 (講談社文庫)

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 仕事が忙しすぎて魔が差したと言うしかないが、「神様はバリにいる」という映画を観てしまった。そういう間違って観た映画には、どういうわけかナオト・インティライミが出ている。
 監督・李闘士男の経歴をみると「ガンジス河でバタフライ」をテレビドラマ化しているから、ヤンデレ(単に病んでる?)系女子が好きなのかも。
 でも、こういうシナリオの出来の悪い映画では、役者の力量は逆に際立って見える。堤真一玉木宏尾野真千子
 ただ、尾野真千子はコメディエンヌとしてはどうなのだろう。「白雪姫殺人事件」の井上真央を観たときも感じたけど、主演は美女じゃなきゃならないっていう思い込みは今みたいに女子の存在が社会的に大きくなっている時代には、興行的な視点からも、捨てて差し支えないように思う。今回のなんて、ハリセンボン近藤春菜の方が笑えたと思います。ブスの方がよいということじゃなくて、人を笑わせる技術ってほぼ天性のもので、努力で何とかなるモノじゃないと思うのです。そういう点、ナオト・インティライミはこっち向きですけど。
 シナリオの何がまずいかというと、堤真一演ずる大富豪と、アデという人物の関係性が掘り下げられてないんですよ。だから、そのへんのエピソードの扱い方が曖昧なんですよ。情報の出し方がまずいと感じるのはそのせいだと思うんですよ。何かデザートのあとに、こっそりスープ持ってくるみたいな、そんなちぐはぐ感があるんですよ。
 でも、何か観ちゃうな、この手の映画は。「ホノカア・ボーイ」とかも失敗の理由は似たようなもので、日系ハワイアンの社会に対するリサーチが中途半端なんだと思った。本来、作り手がかけなければならない手間を原作にたよりきってしまうので、どうしても作り物感がでちゃう。
 それから、「白雪姫殺人事件」にも出てた奈々緒がナイスバディを披露していた。そういうサービスはこれからもお願いします。
 吉行淳之介の『闇の中の祝祭』という短編集を読んだ。長いものを読んでいる暇はない。というか、こころの余裕がない。
 yahooブックは、何か古本屋を覗くみたいな感じ。なんで『闇の中の祝祭』に出くわすのか、その意外性は面白い。読んだことのある短編もあった気がするけれど、表題作は、宮城まり子とのことをモデルにしているのは、いまさら明らかで、そこにそういうパパラッチな興味を感じないわたしとしては、吉行淳之介作品として異色に思えた。
 kindleで、万城目学の『悟浄出立』を読んだ。中島敦の「李陵」「悟浄歎異」にインスパイアされていると思われる。『ジョーカー・ゲーム』の柳広司が「山月記」をリメイクしていたし、中島敦ブームというわけでもないだろうが、「父司馬遷」なんかを読むと、四書五経のほうが、聖書なんかよりあきらかに自分なんかのDNAを刺激するものがあると認めざるえない。
 キリスト教文化が、‘崩壊’は言い過ぎでも、膨らみすぎていた部分がしぼみつつある世界で、東洋と西洋のどちらも理解できるわたしたちが発信できることはあるという気がする。
 「イラク チグリスに浮かぶ平和」のなかで、イラクの人たちが口にする「これがアメリカの民主主義か?」という問いかけについて書いたけれど、わたしたちは、たぶん西欧諸国のひとたちよりもずっと、その問いかけの切実さについて知っている。私たちには、私たち自身の文化があるのはもちろん、私たち自身の文明もあるのだが、西欧人は自分たちの文化と文明のちがいを理解できないので、自分たちの文化を文明であるかのように押しつけようとする。その結果を私たちはすでに痛い思いをして知っている。
 今の私たちがとるべき態度は、西欧人の身振り口ぶりそのままに「テロとの戦い」に参画していくことではなく、そうした私たちの文明の軋轢の経験を語り伝えていくべきなんだろうと思う。それは、教条的に「民主主義」をふりかざしていてはできないことだと思っている。