『暴力をめぐる対話』『PLAN75』

 この週末に『暴力をめぐる対話』と『PLAN 75』を観た。
 『暴力をめぐる対話』は、フランスで続いている「黄色いベスト(gilets jaunes)」のデモの現場で撮られたスマホの映像を観ながら、いろんな人が対話するドキュメンタリーで、フランスでは、コロナ禍の公開にもかかわらず10万人を超える動員を記録したそうだ。デモ現場での暴力と聞いて、一部のデモが暴徒化してるのかなとか、そっち方向を予想するじゃないですか?。ところが、それどころじゃなくて、警察がデモ隊に向かって暴力を振るっている。フランスでと考えるとあまりにも意外。
 黄色いベスト運動というのがフランスで盛り上がっているのは知っていた。しかし、フランスのデモは、彼らの生活の一部なようなものだと思っていたし、もうちょっと明るいイメージを持っていた。まさかこんな、香港の雨傘運動みたいに、もしかしたらそれ以上かもしれない、警察の暴力が横行していたとはまったく思わなかった。
 デモ隊に対して手榴弾を使っている。それで、2人が死んで、5人が手を失い、27人が目を失っている。手榴弾?。手榴弾って警察が使うアイテムだったっけ?。デモに向かって警察が手榴弾を投げる民主主義国家ってありえます?。
 フランス、デモ、手榴弾ってこの三題噺が衝撃的すぎて言葉を失う。が、この事態は、黄色いベスト運動以前からはびこりつつあったものが、黄色いベスト運動で可視化されただけらしい。そう言われてみると『レ・ミゼラブル』っていう警察がやりたい放題する映画があったが、フィクションなんだし、現実を反映しているとは思っていなかった。
 そういう文脈で見ると、7年前の「シャルリ・エブド襲撃事件」も別の意味合いで見えてくる。あの事件は果たして単に狂信的な信仰によるものだったのか?。むしろ、「黄色いベスト」と同じく、被差別的な待遇に対する反発ではなかったのか?。
 警察による暴力というと「ブラック・ライヴズ・マター」デモの発端となった「ジョージ・フロイド事件」を思い出すが、文化をめぐって何かとアメリカを批判しがちなフランスで、アメリカとまったく同じ暴力が市民社会を蝕んでいる事態には驚かざるえない。
 映画の中で誰かが言及していたが、暴力には警察の暴力、市民の暴力、の他に第三の暴力がある。奇しくも、黄色いベスト運動のさなかにマクロン仏大統領とプーチン露大統領が会談するシーンがあった。プーチンは、ロシアではこのようなことは「合法的に」処理されると言う。ロシアのような国で暴力は「予防的に」行われる。デモすら起きない訳である。
 日本を振り返ると私たちの国は、アメリカやフランスよりはるかにロシアに近いみたい。入管でウィシュマ・サンダマリさんが殺されても、デモには200人くらいしか集まらない。ロシアや台湾、香港、よりはるかに民主主義が未成熟だとわかる。
 『PLAN 75』は、そういう予防的な暴力を描いた映画である。話題になっているけれど、問題作というより名作だった。そして、最後のクレジットで気づいたのだけれども、日仏合作映画だった。そのせいかどうか、日本社会を突き放した視線で眺めている。
 例えば、主役の1人である倍賞千恵子の老いを描く視線に容赦がない。「寅さん」のさくらという思いはどこにも見えない(までいうと言い過ぎかな。劇中に使われる「林檎の木の下で」は倍賞千恵子へのオマージュだろうし)。
 『PLAN 75』は、もともと是枝裕和監督が作ったオムニバス映画『十年』というのがあったんだけど、その中の一編だったものを更に書き直したものだそうである。西川美和監督のデビュー作に匹敵する衝撃がある。
 映画の内容は別にネタバレとかを気にする必要もなく、検索すればわかるだろうが、それよりも、衝撃的なのは、ここに描かれている暴力が、見事に日本的であることである。『暴力をめぐる対話』と並べて見てしまったので、寓話よりもドキュメンタリーに見えてしまう。
 このような予防的な暴力を明るみに出す作用として、やはり、山上徹也が安倍晋三を殺したのは歴史的な意味があったと思わざるえなかった。


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