『聖地には蜘蛛が巣を張る』

 わざわざ横浜に観に行ったのはこの映画。思い返してみると、コロナ禍もあいまって横浜美術館が改装に入ってからは横浜に出かけてなかった。
 kino cinemaみなとみらいは横浜美術館とMARK ISの信号を渡ったところ。夕方からってこともあり、横浜駅からぶらぶら歩いて行ったのだったが、新高島駅あたりがガラッと変わっていてちょっと迷ってしまった。
 イランの聖地マシュハドで実際にあった連続殺人事件。本作はフィクションだが過去にはドキュメンタリーも作られているそうだ。本作の主人公ラヒミは、そのドキュメンタリーに登場していた女性ジャーナリストから着想したとアリ・アバッシ監督は述べている。
 アスガー・ファルハディ監督をはじめ重要な映画監督を輩出しているイランだけれども、その監督たちが誰も国内で映画が撮れないイラン。この映画もヨルダンで撮影しているそうだ。
 インタビュアーが、「まさかイランで撮ろうとは思わなかったでしょうが・・・」というと、「撮ろうと試みましたよ!」と。しかし、「いい」とも「ダメ」とも答えが返ってこなかったそう。つまり「ダメ」ってことだと。この辺り、日本の役人とやり口が同じ。ホメイニ革命がどうあろうが、末端の役人がこうなら、やっぱりダメなんだと思う。
 ラヒミという架空の女性ジャーナリストを主役に設定したことで、事件の被害者である娼婦たちにシンパシーを感じやすい。イスラム社会の女性差別のひどさは今さらいうまでもない。

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 これ、文化を言い訳にできないと思いませんか?。
 外から見ればわかりやすいけれど、内側にいるとわからなくなる。となりの人もそのとなりの人もそうだし、世界なんてこんなもんだろう、まあいいやって思考停止してるんだろう。それだけのことを文化というべきではないと誰もが思うだろう。外側から見れば。
 その意味でそれこそホントに文化なんだろう。だからこそ、文化なんかを振り回す相手に屈するべきではないと思っている。
 
 ラヒミを演じたザーラ・アミール・エブラヒミは、イランの人気女優だったのを、プライベートなセックステープが流出したそうで、イランにいられなくなった。被害者は彼女の方なんだけど。もうイランには帰れない。今はフランスに住んで、この映画にもキャスティング・ディレクターとして関わっていたが、土壇場で辞退した女優の代わりに主演を務めることになったのだそうだ。
 そのきっかけになったのは、ラヒミが訪ねてきた警察官に関係を求められそうになるシーンだった。女が喫煙している。それで辞退したそうだ。
 監督が映画を撮れず、女優が映画に出られない、そんな国に住みたいかどうか。革命の結果、そんな国になるのだとしたら、そんな革命は何の意味があるんだろうと思うけれど、さらにおぞましいのは、このシリアルキラーを賞賛し助命嘆願する人が多くいたことだ。まるで五・一五とか二・二六みたい。
 それに、このシリアルキラーの息子が親を誇りに思っていて、周囲の人たちも彼に同情的なのである。それどころか、親の跡を継がないかと言われることもあるそうだ。

 薄気味悪いのは、このイランの現状と日本がどれほど違うのか。というか、だんだん近づいていっている気がする。たとえば伊藤詩織さんの事件の時、売名行為だとか言った女性たちがいたことは憶えているだろう。それに『新聞記者』の主演女優は結局韓国人だった。
 日本でも、隠されているだけで、表現が制限され、歪んだ文化的な価値観で叩かれる。そして入管が人を殺しても見て見ぬふりをしている。反対デモがたった110人。入管法改悪はその意味でターニングポイントなのかもしれない。
 難民を締め出すことで日本は孤立していくと思う。他の国は国際ルールに則ってちゃんと難民を受け入れている。その結果として問題が起こったとしても、その解決法は国際社会で共有できる。しかし、ズルをして難民を締め出している国が抱える問題は誰が解決してくれるのか。ましてやそれが問題とすら捉えられてない国。
 娼婦を16人殺したシリアルキラーが誉めそやされる国とレイプ犯が総理周辺にいて警察が庇ってくれる国はそんなに違わないと思う。
 こういう映画が作られるだけ、実はイランの方がマシなのかもしれない。日本ではせいぜい『エルピス』どまり。あれだって最後には言いくるめられるんだし、そうでないと日本の現実を反映しないのだろうし。
 

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