『プロミシング・ヤング・ウーマン』観ました

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プロミシング・ヤング・ウーマン

 『プロミシング・ヤング・ウーマン』は前評判どおりすばらしかったのでおススメです。
 その前に、この前の記事のあと、千原ジュニアさんがご自身のyoutubeチャンネルで『茜色に焼かれる』を紹介していたのを見つけました。「今、このYouTubeを止めて観にいってほしい」と絶賛していたのでうれしい気分です。ただ、ちょっとネタバレ過ぎると思うので、リンクははらずにおきます。
 ジュニアさんのレビューを聞いていると、なんか『茜色に焼かれる』と『プロミシング・ヤング・ウーマン』が似ている話に思えてきてしまいます。宇多丸さんの映画評でも、『茜色に焼かれる』は、前作『生きちゃった』に続いて「表現がストレート」と言っていたのですが、私は「ストレート」という感じはしなくて、というのは、冒頭に「田中良子は芝居が上手だ」という言葉があり、ラストちかくに良子が老人ホームで披露する一人芝居があるかぎり、全編でさんざん傷めつけられた主人公が最後に「オッシャー」となる、そういう痛快なプロットとは別のテーマがあると思うからです。
 たしかに、『プロミシング・ヤング・ウーマン』も『茜色に焼かれる』も、社会に傷めつけられてきた女性が、社会と和解するか、それとも、復讐するかという揺れのあたりは、とても似ているといえます。
 でも、見終わって、アメリカと日本の社会の違いを思いました。レイプっていうのは、原始的な性衝動のように思われていますが、実は、そうではなくて、社会的な暴力なんだと言われています。性欲というよりは社会的な立場の強弱による支配欲、もしくは力を誇示したいという欲求によっているようです。
 『ショーシャンクの空に』の主人公が刑務所で男に犯されます。それを忠告してくれたモーガン・フリーマンに「俺はホモじゃない」というと「奴らだって違うさ」と言われます。
 レイプがもし、単純な性衝動からくる行動であるなら、被害者の心は痛まないかもしれません。動物としての人間のセックスがそのようなものであるなら、それを被害者も共有しているはずだからです。
 この映画のレイプの舞台が医大であるのはわかりやすい。日本でも、慶応医大レイプ事件がありました(これは、映画でなくて現実ですが)。これらがどちらも医大を舞台にしているのは、偶然ではないでしょう。『プロミシング・ヤング・ウーマン』でも、復讐の対象となるのは男性だけではありません。つまり、この今という時代では、男女の性差よりも強いジェンダー差が存在しているということになるでしょう。フェミニズムが無効に感ぜられるのもそういう背景があるかもしれません。
 『プロミシング・ヤング・ウーマン』は、レイプされて自殺した女性の親友の復讐劇です。これが、『ジャンゴ』のような西部劇的な復讐劇の定型におさまるのが、アメリカ社会のドラマのあり方だと思います。このような復讐劇が現実的かどうかではなく、すくなくとも、こうした勧善懲悪のあり方を信用できる。
 こないだからくりかえしてますが、日本社会ではこうはいかない。善悪のありかたがゆがんでいる。江藤淳が言っているように「自律的な文明」がないんです。
 なので、菅義偉麻生太郎や西村なにがしに怒るのではなく、霜降り明星を叩いている。これは丸山眞男がとっくに言ってます。「抑圧の移譲」です。政治家がうそを言っても怒れず、コメディアンの冗談に怒ってる。
 そういう国で怒りを映画で表現するにはどうすればいいかとなったときに『茜色に焼かれる』になるんだろうと思います。『プロミシング・ヤング・ウーマン』を気に入った方はぜひ見比べてみてください。