言葉の重み

横山やすし的な理由で辞任した中川昭一の後任に、与謝野馨経済財政担当相が就任したわけだが、中川昭一は、なぜか財務と金融を兼任していたのだから、与謝野氏は財務、金融、経済財政と三つのポストを兼任することになったわけである。長続きするはずがない。つまり、麻生太郎は、もはやこの内閣を延命させる意志がないというメッセージを発信したことになる。
ヒラリー・クリントンもせっかく最初の外遊先を日本に選んだのに、誰に会ったらいいのか分からない。
私が興味深く感じたのは、小沢一郎の反応。
「こちらから求めたわけではない」
とか。
この人も小泉純一郎に負けず劣らず「奇人変人」のようである。
小沢一郎は、もし、自民党を出さえしなければ、とっくに総理大臣になっていた人である。
去年の大連立騒ぎのときの、
民主党には政権担当能力がない」
という彼の発言は、今にして思えばとても重みのある発言だった。
二大政党制は小沢一郎の生涯のテーマであったはずだから、当時その発言を批判した民主党議員の誰よりも、それは彼自身にとって痛切な思いであったはずなのである。
多分、民主党には政権担当能力はない。総理になれるはずだった小沢一郎の目に映る民主党の実情は、半世紀の長きにわたって、実質上一党独裁を続けてきた自民党と較べれば、気が遠くなるようなものだと思う。
誰よりも二大政党制を望んでいる彼が、誰よりも民主党の力のなさを理解している、その孤独には想像が及ばないものがある。
するのしないのとごねていたクリントンとの会談も、結局終えてみると、小沢一郎の政治家としての風格は麻生太郎の比ではない。
もし、次の選挙で民主党が政権をとったとしても、うまくいかないことが多いとは思うが、立ち止まっているより、つまずきながらも一歩踏み出す方がよいと、私は思う。
今回のクリントンとの対談は、小沢一郎が、迷いながらも踏み出した一歩だと私には思えた。
小泉純一郎は、ロシアでの会見で、2008年度第2次補正予算関連法案が衆院で再議決される場合の対応について「欠席する」と表明した。大勢には影響がないだろうとニュースは伝えている。
しかし、生き方を貫くということは、政治家にとってだけでなく、大人は考えてみるべきことなのである。「言葉の重み」ということをね。