プーチンと小沢一郎

今朝、テレビ東京鈴木宗男が出ていた。
テーマはふたつ。プーチン小沢一郎である。
鈴木宗男は、二つのテーマともに専門家なので(?)興味深い話が聞けて面白かった。失礼な言い方だが、東京地検特捜部との事件を経て、一皮むけたのかなと思ったのは、国民に対してメッセージを発するということに、賢明になったという感じがすること。
具体的に言うと、「国策捜査」という言葉を一切使わず、それを匂わせもしなければ、インタビュアーに使わせるすきさえ与えなかったことである。
そもそも「国策捜査」ということばは、彼の事件に連座して逮捕された、佐藤優を取り調べた検察官の口から出た言葉であるから、その言葉を使う権利があるのは、本来、鈴木宗男佐藤優だけであるにもかかわらずだ。
思い起こしてみると、大久保秘書が逮捕されたそのときの声明でさえも、鈴木宗男は「国策捜査」と断言することは避けていた。
その言葉を使うと「国策捜査かどうか」という卑小な水かけ論に引きずり込まれることは目に見えている。
しつこいようだけれど、「国策捜査かどうか」は問題ではない。
与野党が対立している定額給付金関連法案を、与党内からも疑問の声が上がっていた3分の2条項を使って衆議院での再議決をするという、その前夜も前夜、野党第一党の公設第一秘書を、テレビカメラの前で大々的に逮捕したという、誰の目にも明らかな、むしろこれ見よがしな、検察の政治介入が問題なのである。
これを政治介入だととらない政治家は、その時点でもう信用できない。
今回のインタビューアーは田勢康弘であったが、ふたりの小沢一郎評が面白かった。
「小沢さんという人は、一対一になるとあまり相手を圧倒するような、そういうことの得意な人じゃないですよね。」
「それがまた小沢さんのいいとこでないでしょうか。
豪腕だとか、なんとなく強いイメージを持ってますが、小沢さんという人は人柄はいいんですね、ただ、小沢さんの不幸なのは、私と一緒でちょっと顔の準備ができてませんね。
(笑)
その部分が可哀想な部分あると思いますけど、ちょっと低姿勢というか、控えめなところがあるんです。」
「私の印象は、わりに単純な人だと思うんだけども、それがすごい複雑に見える。なんかどこかで違うこと考えてるんじゃないかと、そういう印象ありますよね。」
「ただ、ぶれないですよ。この点で、私は今の政治家というのは、みんな右顧左眄する、非常にひまわり的にいいほうにしか向かないという話がありますよ。
ま、時に、ひまわりもいいんですけどもですね、やっぱり、私は、野に咲く雑草、踏まれても踏まれても立ち上がっていくという・・・小沢さんがよく日本を壊すんじゃないかと心配されていますけども、私は壊してもらいたい。官僚政治打破だとか、金持ち優先の政治打破だとか、弱いもののために政治があるという、そういう壊し方をしてくれることに国民は期待していると思います。」
プーチンは週明けに来日することもあり、今週号のプレイボーイで佐藤優も触れている。ちょっと引用しておくと

・・・プーチン氏は優れたインテリジェンス(諜報)官僚であるとともに、インテリ(知識人)なのだ。

ロシアのインテリの特徴は、単に知識や教養があるだけではなく、権力に対して批判的だということだ。インテリ的体質をもったプーチン氏は、自分自身を含め、権力に批判的である。

佐藤優のロシア時代の回想録『自壊する帝国』を読んだ人なら、このくだりを読んですぐに彼のロシアの友人サーシャを思い出すはずだ。
有能な外交官であった佐藤優のこの指摘はいろいろな意味で、それこそありとあらゆる意味で、奥深い。
鈴木宗男はロシア外交についてもっとも詳しい政治家であろうから、この番組でも北方四島をめぐる話には非常に説得力があり面白かった。
しかし、この問題に関してはほぼ現場の実力にかかっている。プーチンにも支持者がいて、反対勢力がいて、国民がいるわけだから、信用できない相手に重大な決断は下せないわけである。
余談になるが、日本語にもなっている「インテリ」の語源はロシア語の「インテリゲンチャ」である。
明治時代に、イギリス、フランス、ドイツなどありとあらゆる国から人を雇って制度を作り上げた明治政府だったが、そんな中で、雇われもしないのに日本にやってきた外国人が、片足のロシア人革命家メーチニコフだった。
故国に先んじて革命を成し遂げた日本という国に、彼は革命の情熱を抱いてやってきたのである。
明治の日本人にとって見れば、英語、フランス語、ドイツ語を学ぶことは、実用的なことだったが、ロシア語を学ぶことはそれとは違うことだった。だから、日本語の「インテリ」にはそういうニュアンスがある。
明治開国以降、日本はずっと実用一筋で突っ走ってきたように思う。
以前に紹介した中村光夫の「『近代』への疑惑」にこうあったはずである。

 これまで我国において近代的といふ言葉は大体西洋的といふのと同じ意味に用ひられてきた。そしてこの曖昧な社会通念が、なほ僕等の意識を根強く支配してゐるのは、それが大体次のような二つの事実を現実の根拠とするであらう。

 そのひとつは我国においては「近代的」と見られる文化現象はすべて西洋からの移入品であつたといふことであり、いまひとつは僕等が「西洋」のうちにただ「近代」をしか見なかつたといふことである。

日本の近代は、西洋近代のカリカチュアだったと思う。私たちは「近代」のうちに実用性だけを見て、よくも悪くも、その奥にある「キリスト教」の存在に目を向けなかった。「キリスト教」とはつまり、彼らキリスト教徒が生きている根拠そのものだということなのだ。
だから、小林秀雄たちが「近代の超克」などといって、西洋より自分たちの文化のほうが優れているみたいなことを言おうとしたとき、加藤周一たちの世代は、「それはちがうのではないか」と反発したのだと思う。
キリスト教徒が自分達の生きる意味を問いかけつつ進んで来た「近代」という行きかたに、少し行き詰まりが見えてきたからといって、それを単に表面的に模倣しているに過ぎない私たちが、「それ見たことか」ということに何かしらまじめな意味があるはずがない。
そのころの日本の状況というのは、役人が西洋の宗教を模倣したにすぎない国家神道のために、国そのものが滅びかけようとしていた。「近代の超克」とは、自分が猿真似しているのにも気が付かずに、真似した相手がちょっとつまづいたといって笑おうとする行為だった。
模倣が悪いわけではない。ただ、自分が模倣しているものに敬意を払わず、利便性だけをかすめとろうとすれば、ひどく下品なことになる。戦前には、日本の近代を代表すると目されていた知識人が、あっさりと転向してしまう例もあった。
ひっくるめていえば、cultureということを言おうとしていることになるかもしれない。そのことをあまりないがしろにしすぎているという気がする。
最近の例をあげれば、漢字が読めないのはまぁいいとして、
「明らかに有罪だから逮捕された」
などという麻生総理の一連の発言はどうだろうか。失言というレベルではない、彼のcultureのお粗末さを表していると私は思う。