評伝 斎藤隆夫 孤高のパトリオット 

このGWの最後をこの本に費やしてしまった。
昨日書いたことの一部分はこの本の反映でもある。
しかし、どうだろう。この本をこのときに読む気になったのは偶然ともいえない気がする。
今という時代が、戦後ほとんど忘れ去られていたこの斎藤隆夫という政党政治家を闇の中から立ち上がらせた感じがする。
この本を読んでいると、大正デモクラシーから大政翼賛会の時代に至るまでの政治状況に、今の時代が重ね合わさってしまってしかたがない。
官僚の専横、政党の大衆迎合。とくに、家柄や門閥だけがあって政治的実力が伴わない政治家が、軍部にいいように小突き回される姿には、私たちのよく知っている現代の政治家の顔が、脳裏に浮かんでくることを止められない。
冷戦構造が瓦解しても、アメリカの資本主義が事実上世界を支配しているあいだは、日本に政治は必要なかったのだろうと思う。
だから、第二次大戦直後から今まで、
「総理大臣なんて誰がやっても一緒」
自民党にやらせとけばいい」
というぶっちゃけた床屋政談にも、一応の真理はあったのかもしれない。
しかし、アメリカの子分でいればそれでいいという状況でなくなった現在、日本にもようやく政治家が必要になったのだと思う。
そのとき、日本という国がその記憶の中から呼び起こしたのが、政党政治斎藤隆夫だったのだと私には思える。

斎藤隆夫が忘れ去られてきたことについて、著者は、2・26やシナ事変について軍部を糾弾した斎藤隆夫は、青年将校に同情的な歴史家たち(革新派)には敬遠される一方で、政党政治を解体した近衛文麿を激しく攻撃したため、近衛文麿に同情的な歴史家たち(現状維持派)にも無視されてきたのではないかと分析している。
そして、

そうだとすれば、斎藤隆夫の評価には、「革新」派か、「現状維持」派か、といったものとは別の視点が必要なのではないだろうか。

そうおもって、わたしは斎藤隆夫政党政治家としての精神や、その政治思想が出来上がってくる精神過程に目をむけようとしたのだった。その結果、斎藤の、愛国心であるとともに愛郷心ともいうべきパトリオティズムの精神や、現にある「大衆」ではなく、あるべき「国民」に根をおく政党政治への考えかたが、つよく印象に刻まれたのだった。

と書いている。
あとがきによると、この評伝は、名著という評価の『日本の失敗』という著者の史論を、ひとりの人物に集約してみたらどうなるかと考えたとき、斎藤隆夫が心に浮かんだそうなので、日本がだんだんと軍国主義化していく歴史もすごくわかりやすい。
ネットに氾濫している「右だ、左だ」の水掛け論に辟易している方は読んでごらんになる価値があると思う。