自民党のオーナー

新聞によると、自民党の候補者は、「比例区公明党」と叫んでいるそうだ。
すでに多くの人が指摘しているように、自民党政治は官僚に丸投げで、その官僚の政策は革新官僚の流れを継ぐ社会主義的なものだった。生活者のための社会民主主義ならぬ生産者のための官僚社会主義
そしてそれは、高度経済成長が社会矛盾を覆い隠してくれている間は、うまく機能していた。野口悠紀雄は「ねずみ講」に譬えていた。
そこでの自民党政治家の役回りはといえば、高度成長のうわずみを自分の選挙区に持ち帰ってばらまく事であった。
そのやり方を格差是正という点から、高く評価する人がもしいたとしても、高度成長が終わりを告げた今となっては不可能なやり方であることには合意してもらえるはずだ。
そして、そのやり方が政官業の癒着を生み出したということも。
バラマキは生活者を対象にして行われず、生産効率の悪い業態の生産者を守る規制や談合として行われた。
その意味で、小泉構造改革が打ち出した規制緩和は、高度成長後の日本のあり方として正しい方向だった。むしろ問題は、それを実行する主体である自民党が政官業の癒着を断ち切れなかったということだろう。患者が自分で自分を手術はできない。
小泉純一郎という非常に強いリーダーシップを持った政治家がいたからこそ、曲がりなりにも改革路線を堅持できたが、彼の退陣後は結局官僚と族議員が力を持ち直し、自分たちの傀儡として動かせる総理大臣が就任するまで、何度も首を挿げ替えるという国民不在の暴挙に出た。
しかし、彼らの富の源泉である高度成長が現に終わっている限り、今までのやり方を維持しようとしてもそれは無理なの。
そのことが理解できないことが、実は官僚の限界を示しているし、今までの自民党政治がいかに官僚頼みであったかもまた露呈させている。
明治以来、西欧の近代工業国に追いつこうとしてやってきた官僚主導の政策が100年以上続いた。そのために、一部の日本人(と私は信じる)が、今までどおりのやり方でも何とかなるんじゃないかと思っているのも無理はない。
格差が生じたのは小泉構造改革のせいで、それまではうまくいっていたんじゃないかと。
たぶんその人たちにとっては「失われた10年」が、文字通り記憶からも失われている。
ここで、もういちど「朝まで生テレビ」の森永卓郎絶叫を引用すべきだろうか。あれほど惨めな言葉はあまり何度も書きたくはない。
高度成長期が終わったのは昨日今日ではない。それからすぐに新しい体制に入るのはもちろん無理としても、もういい加減、国の新しい姿を示せなければまずいという危機感が国民の側にはある。
郵政選挙で国民が示したのはその危機感なのである。
小泉純一郎が示したのは高度成長後の日本の姿としてのひとつのモデルだったし、さらにいえば、自民党が政党として今後も存続するためには、その方向しかなかったはず。
前にも書いたけれど、ゴルバチョフに「もっとも成功した社会主義国」といわれるこの国のかつての政治が政党政治であるはずがない。社会党自民党と入れ替わったとしても、何も変わらなかったのを私たちはすでに見ている。
ポスト高度成長の、まともな政党政治の政党として、自民党が行くべき方向はあれ以外になかった。
今度の選挙では、政権党である自民党公明党は、今までの政権運営に対する信任不信任の評価を下される。マニフェストの細かい文言よりそのほうが重要なのはいうまでもない。
繰り返していうけれども、前の衆議院選挙で公約した改革路線を反故にしただけでなく、180度ひっくり返したことは、国民に対する完全な裏切りだということ。であるかぎり、自民党マニフェストにどんな美辞麗句がつづられていたとしても、そこに何の価値があるのか?圧倒的な支持を得た自らの公約をあっさりひっくり返してしまったために、自民党は拠って立つべき理念を失ってしまった。
で、この文章の最初に戻る。
新聞によると、自民党の候補者は、「比例区公明党」と叫んでいるそうだ。
示すべき理念を失って、自民党の政治家たちは、創価学会だけが頼みらしい。勝ち負けはわからないものの、ひとつだけ断言できることは、この選挙が終わるころには、自民党の実質のオーナーは創価学会になっていることだろう。