木村伊兵衛、アンリ・カルティエ=ブレッソン、セバスチャン・サルガド

せっかく東京に出たので、つぎに恵比寿の東京都写真美術館で‘木村伊兵衛とアンリ・カルティエブレッソン

木村伊兵衛がパリで撮った写真などは、うっかりブレッソンの写真かと見まがうほどである。
だが、ブレッソンの写真は、よくよくみるとすみずみまで構図が考え抜かれているように見える。
これに対して、木村伊兵衛の場合は、誰かが多分言っていたように‘居合い抜き’で決定的瞬間を切り抜いている。歌舞伎の一瞬の表情などはそういうとり方でなければとれないはずだ。1/125秒とかのシャッタースピードで撮っているとして、一秒の中だけでも125通りの選択があるわけだから、歌舞伎全体では事実上無限の枚数の可能性がある。そのなかからベストの瞬間を切り取ることが計算ではできるはずもない。
その瞬間に立ち会って、しかも、その瞬間にシャッターをきる。それが絵画とは全くちがう類の技術であることは間違いないだろう。
だが、『決定的瞬間』はアンリ・カルティエ=ブレッソンを一躍有名にした作品集の名前である。もともと画家を目指したアンリ・カルティエ=ブレッソン木村伊兵衛とはアプローチが違ったはずだが、そのシャッターを切る決定的瞬間でお互いに出会ったわけなのだろう。これは驚きだったかもしれない。
めずらしく木村伊兵衛のカラー作品も見ることができた。木村伊兵衛にとって‘色’は、現実の色の再現ではなく、写真として表現される際の構成要素とわりきっていたそうだ。モノクロームの写真は間違いなく現実の再現ではありえないわけだから、その世界を突き詰めていた人の発想として興味深い。
いま私たちは、写真は現実を再現できる、つまり、現実を記録できると思いすぎている。実際にはそうではなく、記憶を刺激できるだけなのだろう。
そして、感動したのは同じ館の下のフロアーで同時開催されているセバスチャン・サルガドの<アフリカ>。
わたしが入場した午後一時ごろはまだマシだったのだが、見終わって出るころには文字通り建物を取り囲む行列ができていて、ついには入場制限になっていた。
私の予想では今日見た三つの展覧会のうちいちばん空いているだろうと思っていた。
もちろん、明日が最終日ということもあるだろうけれど、見て必ずしも楽しいというわけではないこういう展覧会に人が押し寄せるということには、いずれにせよ、よい面がある。
人々が根底で気がつき始めていることは、もし貧困を解決しようとすれば、国内にだけ目を向けていてはいけないということなのだ。
私たちの奇跡的といわれた戦後の復興にはたしかに自助努力という一面もあったに違いないが、同時に、歴史の歯車がもたらした幸運という一面を否定することはできない。
高度成長からバブルに浮かれたあの時代、私たちの目は世界に向かって閉じていた。あの時代、私たちが積み上げてきた富はどこに消えたのだろうか。目が見える人ならとっくに気付いているはずだが、そのほとんどは既得権益の企業や官僚が役にも立たない事業に蕩尽してしまった。もっとましな使い道があったはずである。
「高度成長期はよかった、バブルはよかった」などとは当時を知っている人間は思うはずもない。あの日に戻りたい種類の人種が存在していることは知っているが、そういう連中は現にその日に戻ったとしても、また戻るところを求めて夢想しているだろう。民主党には、300人よってたかって、小泉純一郎竹中平蔵が成し遂げたことの千分の一もできませんでしたということにならないように願いたいものだ。