齋藤陽道の写真

knockeye2014-03-09

 ちるがうへにちりもまがふかさくらばな かくてぞこぞのはるもすぎにし

 ワタリウム美術館に齋藤陽道の写真展を観にいった。
 きのう来ていれば、‘ドッグレッグス’という、この写真家自身もレスラーとして参戦している、障害者によるレスリング興行も観られたらしい、美術館なのに。ワタリウム美術館は、ちょっと尊敬しちゃう。かっこいい。
 美術館で展示する写真は、アクリル板にプリントする場合が増えてきた。もちろん、木村伊兵衛とかアンリ・カルティエブレッソンとかの場合はオリジナルプリントだから紙だけど、今の人が、新作を展示するっていう場合。
 アクリルは紙よりもモノの感じがしなくて、イメージがダイレクトに感じられる。実像でありながら、どこか、アクリルを通して虚像を見ているような感じがするのだろう。それは、自分の見ているイメージをそのまま伝えたい写真家には、きっとすごくしっくりくるのだと思う。
 写真は実像として、たしかに、そこにあるモノだが、しかし、一方ではそれは、無限に連続する虚像の、一瞬を切り取った断面にすぎないともいえる。
 写真が虚像か実像か、などという分析それ自体は無意味だが、齋藤陽道の写真を観ていると、移ろいゆく虚像に向けてシャッターを切る、写真を撮るという行為の、切なさの気配が、まだ漂っているようにも感じられる。フレアやゴーストを盛んに移し込んだ人物スナップの数々には、とくにそういう感じがする。
 「無音楽団」というシリーズの写真は、耳の聞こえない人にとって音楽が、こんな風に存在しているのかと気づかせてくれる。‘永遠の憧れ’とキャプションがあった。そこにありながら、失われ続けながら、手に届くことがない。しかし、わたしたちにとって、いったい、何がそうでないのか。ここにあるすべてのイメージのどれかひとつさえ、所有することも所有されることもなく、ただ過ぎ去っていった、影でしかない。
 わたしたちはただそれを茫然と見ているしかない、その決定的な諦めの瞬間に、きっとこのカメラマンはシャッターを切っていると思った。

 ワタリウム美術館は11:00am開館だったのに、少し早く着きすぎたので、根津美術館に、源清麿という幕末の刀工の残した日本刀の展示を観にいった。もし、刀がこれほど美しくなければ、人がもののふという言葉に抱くイメージはずいぶん違っていただろう。刀の美しさがなければ、武士道という倫理は生まれなかったかもしれない。
 お茶の展示は、花時の茶事。冒頭にあげた和歌は、伝 藤原行成筆の貫之集切にあったもの。「かくてぞこぞのはるもすぎにし」という下の句が心に残った。
 日本民芸館に行って、「茶と美 柳宗悦の茶」という展示を観た。
 「茶と美」という柳宗悦の本は読んだけれど、ちょっと文章が硬いなと思った。
 柳宗悦は、椅子に座るお茶会などの実験もしていたが、一方では、ひとつの形に定着したお茶の作法も高く評価していたそうだ。でも、それが変わっていくこともやっぱり必要だということは譲れなかったのではないか。そもそも千利休のころには、正座して茶を点てたりはしていなかったはずなのだし。
 展示に、瀟湘八景の「平沙落雁図」があったのだが、これが、牧谿のものとは大違いの素朴なものですごく気に入ってしまった。

宝箱

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