やっぱり教育は立て直さなきゃと思う

内田樹の「下流志向」は、その分析もさることながら、内田樹自身が
「目の前で何が起こっているか理解できなかった」
と語っている、常態化した学級崩壊こそ衝撃的だった。
父兄参観のときでさえまともに授業を受けているのは十人程度で、他の子は授業中だというのにふらふら歩き回っている。そして、親は子どもを叱るどころか、学校に苦情を言い立てる。その姿は、貧困の責任を社会に押し付ける今という時代の合わせ鏡だ。
わたくし思うけれど、小学生のころから、毎日授業を受けている人間と、毎日さぼっている人間とのあいだに‘差’が生まれるのは当然じゃないだろうか。そういうことを‘格差’などと二字熟語にする必要があるだろうか。
格差社会」とか「新自由主義」とか、どこに実態があるか分からないお題目は、そういう一群が自己を正当化する、いわば、最後のよりどころだったのだろう。
ゆとり教育が見直されるらしいが、カリキュラムより、社会が子どもを教育しようとする意志を失っていることが問題だと思う。
思い出して見れば、ブラジルでシュタイナー教育に携わってきた小貫大輔の娘さんが、日本での生活を見限ってブラジルに帰っていったその後姿は、この国の教育現場が死に瀕していることを警告していたのだろうと思う。

ブラジルから来た娘タイナ 十五歳の自分探し

ブラジルから来た娘タイナ 十五歳の自分探し

ゆとり教育とは名ばかりの、いじめと足の引っ張り合いを繰り返していたとおぼしきこの世代を、最近では‘ゆとりーまん’などと称して揶揄する記事も目にすることが多くなった。
しかし、そういう世代論は不毛だろう。どんなにむずかしい時代でも、自分の意志で進む方向を見つけ出す人たちは少なくないのだと思う。
村上龍の「カンブリア宮殿」で、秋田にある国際教養大学という公立大学の学長、中嶋嶺雄との対談が面白かったのでタッチタイプ。この大学はすべての授業が英語で行われ、学生は全員一年間の留学が義務付けられている。そして、大学も他の国からの留学生も多く受け入れている。就職率は100パーセント。一流企業の人事部が注目している大学だそうだ。

「就職率というのは、最初から大事にされたんですか。」
「大事にというか、最初は非常に不安でね、大学をわれわれの理念で作り、学生も全国から集まってくれた。しかし、これをどう社会が評価するかってのは就職ですから、第一年目の時とかは非常に心配しましてね、いろいろ努力もしたんですけど、幸いにしてだんだんだんだん企業が実際にわれわれの大学に来て、そして企業がわれわれの大学の学生に、ほんとに手で触れるみたいな形に接触していただいて、それでもって、もうほとんど就職の心配はなくなったと思えるくらい非常に今順調にいってますね。」
「英語を学ぶんではなくて、英語で学ぶ・・・」
「英語で学び、英語で考える」
「・・・ってことが有名なキャッチフレーズでありますけれども、たんに英語力だけではなくてですね、もっと広いコミュニケーションスキルっていうのを、鍛えているような気がするんですよ。」
「そう。ほんとは大学、特に学部教育はね、教養と外国語力をすごく力を入れて養成しなければいけない。ところが、ほとんどの日本の大学はそうなってないんですね。
そうしますとですね、大学という知的コミュニティーでありながら、非常にその、ある意味では‘知の鎖国’って僕よくいうんだけども、国際的世界的広がりを持たないんですよ。
で、特に企業は、いまから10年くらい前、あるいは、バブルの時代はね、大学生はどんどんとると、で、大学で勉強してきたことなんかあんまり役立たないで、‘オン・ザ・ジョブ・トレーニング’で自分たちがやるっていう風に考えてましたでしょう。だけど、それが僕は逆に言うとね、日本の企業の限界だった。
つまり、エコノミックアニマルとして活躍できる人材は企業に集まったけど、ほんとの深い教養を持ち、ほんとに外国語がよくできる人がいなかったんですね。
だから、大学はやっぱりほんとに教育してほしいというふうに、今、企業はようやく思い始めていると思うんですね。」
「そういった企業の危機感っていうのは高まってますか。」
「そうですね。」

「取材のVTRを見てたんですけども、非常に勉強しなければいけない環境にありながらですね、学生諸君の顔が、こう、いきいきしてますよね。」
「そうですね。やはり、国際社会で活躍するには、いろいろな意味でタフでなければいけないので、さいわい今のところ、そういうかたちで、学生たちが非常に、明るいし、そして、勉強するし・・・」
「今春卒業の大学生の就職内定率が約8割と出たわけですけども、これが景気が回復すれば、すべて今の新卒大学生の就職状況が好転するかっていうと、昔ほど、僕はしないような気がするんですよ。
ていうのは、結局、企業がどういう人材を求めているか、社会がどういう人材を求めているかっていうことを、大学だったり、学生がですね、あんまり考えることなく、たとえば、偏差値によって大学を選んだりというような状況の中で、今のような内定率の低さという状況が出てきているような気がするんですが、先生はいかがお考えですか。」
「まさに非常にいいポイントをついてらっしゃいますね。
企業の人は、さいわい秋田のうちの大学まで来てくれて、説明会をやったり、面接をしたりしてくれてますけども、聞いてみますとね、やはり、単なる英語力、英語ができるという人材は他にもいるわけ。
やっぱりその、どれだけ逞しいかとかね、どれだけ自分の個性を持ってるかとか。
そもそも初期の学生はですね、まったく地方からこの秋田まで、もうひとつの地方まで来たという、それが非常にパイオニア的な精神があるということで評価していただいて・・・」
「まずそこでね」
「はい、それでやっぱり企業も生涯賃金はかなりのものになりますから、見てますとね、一生懸命、いってみれば‘品定め’、どういう人材かということをよく見ます。
たんに有名大学だからとか、ブランドとか、ましてやコネクションだとかいうことでは採らないですよね。
だから、これから企業も真剣勝負だと思いますよね。
そして日本自身もこれからほんとに、上昇するか、このままダウンするか、非常に大きな岐路にあるんで、なんといってもそこで重要なのは、次の時代を支えていく人材だと思うんですよ。
で、その深刻な認識がね、まだ社会、あるいは日本政府自身にも、どこまであるかという心配がありますけど、そこはやっぱりわれわれきちんとしていかなければいけないという、そういう危機感と使命感、それがわれわれの大学を支えてるといっていいんじゃないでしょうかね。」
ところで、‘鎖国’という言葉をこの一年で何度か目や耳にした。はっきり憶えているのは、まだ政権交代前、「貧困」をテーマにした朝まで生テレビで、田原総一郎森永卓郎にむかって、
「森永さん、日本は鎖国すべき(‘だとでもいうの’というニュアンス)?」
と言ったのだった。
しかし、はっきり‘鎖国’という言葉は使わなくとも、‘閉鎖的’というより‘鎖国的’というしかない奇妙な感じを味わうことが、最近多くなったと思う人もいるのではないだろうか。
近くはこの間のオリンピックの国母選手のバッシングだ。
わたしはただちに、高遠菜穂子さんの事件や、レオナール・フジタのことを連想した。小泉政権竹中平蔵に対するヒステリックな批判や、その他のさまざまなこともおそらく同じ水脈から湧き出ていると思っている。日本人のよくない部分を考えるヒントになると思う。たとえば、「中嶋嶺雄」で検索してみたら。