先日、‘Occupy ウォール街’のデモが‘年越し派遣村’のようになりつつあると書いたが、その後、日経WEBに掲載された記事にも同じようなことが書いてあった。
その記事に添えられたズコッティ公園を埋め尽くすテントの写真を見れば、日本人なら思わず、そこに湯浅誠の姿を探してしまおうというものだ。
反ウォール街デモ、治まらぬ学生の苦悩 :日本経済新聞
この記者は、デモの背景に、リーマンショックを引き起こしたサブプライムローンと同じ構造があると指摘している。
デモに参加している若者の多くは、学資ローンで大学に入ったものの就職できず、住宅価格が高騰した一時期、大学の授業料も高騰したこともあり、ローンの返済が困難になっている。
高騰しつづける住宅価格が幻想であったように、大学を出ればかならずよい職に就けるということも幻想だったというわけである。
豊麗線にさいなまれる歳になると、学歴がその後の人生に何の関係もないのは自明のことだが、しかし、自分自身が十代だったころを思い返せば、いわゆる‘偏差値’なるものに、幾ばくかでも価値を見ていなかったといえば、ウソになると思う。
もちろん、デモの若者たちを責めるのは酷だ。しかし、学資ローンで大学に通って、就職できなかった人は99%なのだろうか?
私には、学資ローンを借りた若者と貸した金融機関は同じ幻想を共有していたように見える。このデモの根底にそうした近親憎悪を見てしまう。99%を叫んでいる彼らが、1%になっていた可能性は十分にあると思う。
25日の記事に書いたように、このデモの主張が、
リーマンショックのときに、公的資金で救済した金融機関が、今では多額の収入を得ているのだから、今度はそこに課税して、投下した公金を回収し、雇用創出の元手にしよう、という話
であるなら、それは正論だと思っている。
しかし、ズコッティ公園に居座っている彼らは、リーマンショック以前の‘右肩あがりの幻想’を、もう一度甦らせてくれと駄々をこねているように見える。
「俺は大学を卒業した。だから、いい企業に勤められるはずだ。そうならないのは世の中が間違っている。だから、元の世の中になるまで俺はここに居座る。」
これが結局のところ、彼らの言いたいことじゃないだろうか。
それはちょうど‘中流幻想’や‘標準家庭幻想’を不変の真理のように思っていた日本の人たちとよく似ている。
歴史を俯瞰してみれば、それらは‘高度経済成長’と‘米ソ冷戦’という特殊事情が生んだ、偶然にすぎない。
私たちの国の、世界二位とか三位とかの繁栄が、アフガニスタンやイラクやパレスチナの人たちに私たちが何か優れているからだと思うとしたら、それはひどく傲慢なことではないだろうか。
私たちはだれも、歴史の偶然のなかでもがいている小さな存在にすぎないことを、知らないとしたら、少し幼すぎる。
野口悠紀雄が言っていたと思うが、格差は、そもそも成長そのもののうちに潜在している。ただ、経済が上向きのときには、それを補う余力があるし、なにより、成長の希望があるときは、格差そのものが励みにさえなる。しかし、経済が下を向いて未来に希望がなくなると、同じ格差が怨嗟のもととなる。
だから、反格差のポピュリズムに引きずられることなく、政治が問題にしなければならないのは、格差ではなく貧困であるはずだ。そしてそれが最も困難な政治課題であることもたしかである。