西和彦のスティーブ・ジョブズ追悼記事

 あまたあるスティーブ・ジョブスの追悼記事も今や偉人伝一冊に綴り終えられた観があるなかで、西和彦の追悼記事は異色で分析が鋭いと思った。

 パソコン創世記のころ、マイクロソフト社の副社長であった西和彦は、

グラフィカル・ユーザー・インタフェース(GUI)を取り入れたMacintoshは、確かに素晴らしい出来栄えだった

と認めながらも、世上に評価の高いGUIよりも

Macintoshの大きな功績が「DTP(desk-top publishing)」の提案にあったとみている。

 スタンフォード大学のスピーチでは、ジョブズ自身が「美しいフォント」についてふれていたのを思い出す。
 技術者本位の視点ではなく、そういうユーザー本位の見方をすると、出版、映画、音楽と、メディアの変革をめざしたスティーブ・ジョブズの一貫した意思が見えてくる。
 西和彦によると、メディア関連の技術覇権は、その黎明期には、市場を創造したアメリカの企業が握ったが、コンテンツを録音録画する時代に移る時に、ソニーやフィリップスなど、日欧の企業に奪われた。
 ipodは、録音録画されたコンテンツがインターネットで流通する時代に、この覇権をアメリカに奪い返した。

Jobs氏はiPodと一緒に「iTunes」を提案し、有料でコンテンツを販売する配信基盤「music store」を整えた。これは、誰もなしえなかった功績だ。

 西和彦は、この背景に、スティーブ・ジョブズがアップルを逐われたNEXT社時代に、プロ向けの機器開発でつちかってきた‘経験や人脈、そして勘’が隠れていると指摘している。

 彼は、プロ向けの技術では出版物から音楽、映像までのシステムを完成させ、一般消費者向けでも出版物や音楽のビジネスモデルを構築した。

 ここで、やはり、日本人として思い巡らさざるえないのは、なぜ、ソニーウォークマンをインターネット配信に対応させられなかったのかという疑問だが、考えてみれば、ソニーは一方ですでに、ソニーミュージックとして、音楽利権を握る既得権益の一部でもあったわけだった。音楽のインターネット配信を面白く思わない、音楽業界の思惑を共有していたのだ。
 ソニーになかったのは技術や発想ではない。未来を思い描く妄想とその実現を願う強い意志を、彼らはもはや失っている。それがないものは永遠に、誰かの夢の下請けに甘んじるしかない。

 これを象徴した場面があった。2010年5月のGoogle TVの発表会の光景だ。ステージの一番左側にGoogle社CEO(当時)のEric Schmidt氏が座り、その横にパートナー企業の首脳がずらりと並び、その中にソニー会長 兼 CEOのHoward Stringer氏の姿もあった。この光景が意味するのは、21世紀の新しい家電を定義するのはGoogle社であり、20世紀のテレビの勝者であったソニーも今や機器メーカーとして“one of them”でしかないということだ。

 上の文章は、日経WEBにあった、辻野晃一郎氏の文章だ。この人は、ソニーでVAIOなどの開発に携わった後、グーグル日本法人の社長になっている。

 結局、私たちがここでまた見ているのは、なんども見慣れた光景、既得権益の保護を変革に優先したものの末路なのだった。
 私はこの秋にもiPadを手に入れるつもりでいたが、気持ちがはぐらかされてしまったのは、JASRACがごねているせいで、iCloudが日本ではまともに使えそうにないからだ。

 iTuneもJASRACの抵抗で、日本ではアメリカに二年遅れたそうだ。JASRACはご存じの通り、役人の天下り団体で、ミュージシャンが結成した団体というわけではない。したがって、JASRACが保護しているのは彼ら自身の利益であってミュージシャンの利益ではない。
 しかし、こうした既得権益の抵抗がいかに理不尽であっても、これを変革する困難を私たちはずっと目にしてきている。そしてこうした抵抗に屈して変革できなければ、沈んでいくだけだということも、やはり、骨身に沁みて知っているはずなのだ。
 iCloudのように、ユーザー本位のサービスを否定する一方で、クラウド技術という入れ物だけを発展させて何か意味があるだろうか。

Jobs氏の死によって、映像メディアの新たな姿を模索する動きは、再び混沌とするかもしれない。

と、西和彦は書いている。

 彼の頭の中にあった映像サービスの姿をぜひ見たかった。道半ばでの早過ぎる死は残念でならない。