‘Occupy’のデモについて

 ‘Occupy’のデモは、わかりやすすぎるほどわかりやすい部分と、何が何だかまったく分からない部分のふたつがある。わかりやすすぎるためにわかりにくいともいえる。
 わかりやすい部分は、‘tax the Rich’という主張で、リーマンショックのときに、公的資金で救済した金融機関が、今では多額の収入を得ているのだから、今度はそこに課税して、投下した公金を回収し、雇用創出の元手にしよう、という話。実にわかりやすい。公明正大、一点の曇りもない。
 わかりにくい部分は、これだけわかりやすいことを、奥歯にものがはさまったような、デモが大規模なわりに、なんか焦点がぼやけてる感じなのはなぜか、というあたり。
 しかも、上の政策はオバマの政策そのものなのだから、そもそも反政権デモではありえない。しかし、反議会デモのようにも見えない。
 そういうわけで、マスメディアも政治家もこのデモをどう取り扱うべきか戸惑っているように見える。
 私の見たところ、どうもこれはデモが先にあり、その理由は後付けなので、このようにわかりにくくなってていると思う。‘曲先’の歌詞に内容がないように、このデモは‘デモ先’なのではないか。SNSの発展がデモを容易にしているというだけなのではないか。
 デモは次第にホームレスや失業者を集めているという報もあり、時期的にも、日本の‘年越し派遣村’に似た性格のものになり始めている観もある。
 私としては、最初に書いたような主張であるなら、それには大賛成だが、いずれにせよ、デモ自体が何を主張しているのか分からないような状況では、賛成も反対も限定的にならざるえない。
 思い出すのは、9.11の同時多発テロのころ、あのテロの背景を‘ねたみ’のひとことで片付けるアメリカ人が多かったらしいこと。当時、ニュースショーの司会をしていた筑紫哲也が‘アメリカの親たちはは子どもたちに、このテロはアメリカに対するねたみだと教えているらしい’といって苦笑していたのを憶えている。少なくとも当時、アメリカ人の多くが‘アンフェア’であることを是としていたはずだ。今回のデモが‘フェア’であることを求めているなら、私はそれに賛成だけれど、しかし、内心、虫のいい話だとは思う。