’Reinvent(再発明)’の時代

knockeye2012-12-15

 今日は朝から冷たい雨が降り続いてどこにもでかける気がしなかった。日が暮れて雨が上がった後、ちょっとした買い物ついでもあるので、市役所に行って期日前投票を済ませてきた。
 R25の書評記事に湯浅誠の『ヒーローを待っていても世界は変わらない』という本の短評があった。ヒーローを待ち望む心理は、民主主義のめんどくささからの逃避にすぎない。つまり、「決める政治」などというプロパガンダは、民主主義のプロセスを無視してかってに決める権利はだれにもないのだから、精神の怠惰にすぎない。
 しかし、政治家が選挙公約を守ることを期待したとしても、その程度のことを'ヒーロー待望論'とまでいってもらっては困る。政治家が公約を守るのは当然で、公約を履行したからといって、その政治家をヒーロー扱いする必要はない。政治家がまともに公約を守らなければ、それこそ民主主義が機能しない。なにしろ、民主党は選挙後一週間で早くも公約を破ったのである。しかも308もの議席を預託されたにも拘わらず。
 また、ヒステリックな政治家への個人攻撃はヒーロー待望論の裏返しだということを忘れてはならない。前にもふれたが、消費税増税まで小泉政権のせいだなどという、まことしやかな論理を展開しているサイトまで見たことがある。だれであれ、自分が貧乏なのを、小泉純一郎にかぎらず、他人のせいにしても仕方ないではないか。郵政民営化構造改革もわたしたちが選挙で選択したことなのであって、その国民の選択をきちんと履行した政治家が責められる所以はまったくない。その意味で、小泉−竹中バッシングこそが、日本の民主主義の未熟さを示している。総理大臣と殿様の違いすら理解していないとしか思えない。
 昨日書いたことのつづきということにもならないが、雑誌つながりでいうと、今週の週刊アスキーは創刊15周年特大号で、この15年間の歴史が年表になっているが、この15年というのが、あたかも'ソニー衰亡史'で、涙なしでは見られない。VAIOも15周年なのだそうだ。そして、週刊アスキーが創刊した1997年というこの年、スティーブ・ジョブズがアップルの暫定CEOに返り咲いて、翌年、iMacを大ヒットさせる。
 SONYはなぜAIBOをやめてしまったのか、いまだに不思議に思う。AIBOをネットにつないで、ユビキタスのハブのような存在にすることも可能だったはずだと思う。
 格付け会社フィッチ・レーティングスソニーを'投機的'に格下げしたのを受けて、大前研一は、「ソニーにはプラットフォーム化の概念がなかった」と指摘している。'モノ作り'に偏重して、そのモノをどのように顧客に提供していくかというサービス意識を欠いていたと見える。ウォークマンをヒットさせたのは、むしろそれを携帯音楽プレーヤーとして使い始めたユーザーだったと言えるかもしれない。ベータvs.VHS戦争に敗れた経験をまったく生かせていないように見える。
 ちなみに1997年は、三木谷浩史楽天を設立した年でもあるそうだ。楽天の成功は、ソニーの凋落と対照的に見える。iPhoneのプレゼンテーションでスティーブ・ジョブズは、'We reinvent the telephone'と言っていたかと思う。
 今はおそらく'Reinvent(再発明)'の時代なんだろうと思う。世の中にないモノなどないが、インターネットがなかった時代のモノは、インターネットの時代には'Reinvent'されなければならないのだろう、おそらくすべて。そして、それはプラットフォームの書き換えを要求する。
 たとえば、原発に例を取れば、電力を'Reinvent'するとすれば、原子力発電の代わりにソーラーパネルというモノをもってくるだけでは足りなくて、電力の供給スタイルそのもの、プラットフォームといってもいいし、グランドデザインといってもいいが、そこからすべて書き換える発想が必要になる。たとえば、わたしたちはいまお金を出して電力を買っているが、将来は発電機にお金を出して、電力にはお金を出さない時代になるのかも知れない。電力会社は各家庭で発電する電力の不足分を配送電することが業務になるかもしれない。そうなれば、集約的なな発電システムは比較的小規模でよくなるので、日本に資源が豊富な地熱発電や、シェール革命に湧くガス発電などで可能になる。原発代替エネルギーと考えると行き詰まるが、このようにグランドデザインごと変革することを考えれば、方法はありえると思っている。
 しかし、そのためには、もちろん、行政の意思が必要で、それは、選挙で国民が示した意思と一致しなければならないのはいうまでもない。だから、民主党政権のように、政権を取った途端に官僚や既得権益のいいなりに変節してしまうことがいかに罪深いか。公約を守ること以外に政治主導はありえないことを肝に銘ずべきだ。政治家が、官僚や既得権益の使いっ走りではなく、政治家である意味は、国民との公約を守ることにしかないし、マスコミは政治家が公約を守るか否かを監視する役割があるはずだ。にもかかわらず当時の論調は「マニフェストにこだわるな」みたいなことが多かったように記憶する。マスコミがいかに官僚と癒着しているかのよい証拠だとおもう。