ゆとりチルドレンとモンスターペアレント

昨日、美術館の受付でわめきちらしていた‘モンスター鑑賞者’としかいいようのない変なおじさんのことを書いた。
美術館の受付にどんな苦情が付けられるものなのか、それ自体が今もってナゾなのだが、この種の‘モンスター○○’について、目にしたり、耳にしたりすることは、確かに多くなっていると感じる。
ちなみに、ついこないだ、このはてな人力検索でも
ピカソ現代アートに代表されるような、わけのわからない、意味不明の、でたらめのような作品がすばらしいと言われるのはなぜですか?」
云々、という質問があった。
すでに自分の偏見で
「わけのわからない、意味不明の、でたらめの」
と断じておいて、
「すばらしいと言われるのはなぜですか?」
と質問しても、どんな答えにも納得が得られるはずがない。
この質問者が‘モンスター・・・’だといいたいのではない。ただ、確かに心理は共通していると感じた。
相手がピカソであっても、自分が気に入らなければ、とりあえず苦情をいう。こういう心理のありようは、たぶん、今の時代に特有なのだと思う。
特に苦労して探さなくても、これに類する例はいくらでも見つけられるだろう。
ゆとりチルドレンのボスキャラといわれるモンスターペアレントにつるし上げられて、自殺してしまった教師がニュースになったのも記憶に新しい。
いつかの週刊SPA!の巻頭コラムで、勝谷誠彦が‘モンスター国民’という言葉を使っていたが、さすがにこれは定着しなかったようだが。
最近はどうやら下火になってきたようだが、ひところの「格差社会」の大合唱には、私は、このブログにも何回も書いたが、違和感を抱き続けてきた。「格差」と「社会」は字義通りに考えるとして、では「格差社会」って何なの?と調べてみても、あまり確かなことをいっている人は一人もいなかった。
つまり、こういうことだったのだと今はわかる。
問題は、意味のはっきりしない「格差社会」というお題目にあったのではなく、そのお題目を合唱連呼していた大衆心理の側にあったのだということ。
日本人は、あまりにも長く続いた高度成長と、官僚の差配によるバラマキ社会のために、努力するより、誰かに向かって苦情をならべたてれば、世間が味方してくれるという共同幻想を生み出してしまった。
そのことが、内田樹のいう「下流志向」であり、妙木浩之のいう「庇護社会」であり、土居健郎のいう「『甘え』の構造」なんだろう。
以前に引用した、村上龍妙木浩之の対談の一部をここでまた引用してみようか。

妙木 文化人類学でお金のことを調べてみると、お金は外部から発生するんです。
(略)
共同体と外部の境界領域で共通言語としての貨幣が発生するんです。だから、「お金は汚い」と感じるのは、汚いというよりは異物感なんです。
(略)
日本の社会というのは、私は「庇護社会」と呼ぶんですが、外部に対して昔ながらの「共同体」意識を維持させやすい。だからお金でお金をもうける人を「汚い」と異物感を持ちやすいんです。

直近の日経BPネットに投稿された大前研一のコラムを読んでいると、この9月1日に厚生労働省が発表したジニ係数

2008年に0.3758になっていたという。実はこれは過去最大の修正幅である。それだけ日本の貧富格差は縮小されていたのだ。

2008年といえば、「格差社会」の大合唱がいちばんかまびすしかったころのはずだが、どうなっているのだろうか?
私はこう思う。
マスコミが「格差社会」、「格差社会」と連呼したからといって、それをそのまま鵜呑みにするのはやめた方がいい。
実態のわからないお題目に、私たち主権者が踊らされる必要はないだろうと思う。

 日本は修正社会主義の国と言っていい。世界的に見てもこれだけ貧富の差が小さい国は珍しい。つまりは、「この国では金持ちであることが罪である」という原則で政治が行われていることになる。

 マスコミも自分たちの給与が日本の中で飛び抜けて高い(テレビ局などの平均給与は1500万円を超えている)にもかかわらず、高額所得者を批判し「年越し派遣村」などを執拗(しつよう)に追いかける。これを私は「高みの見物の大衆迎合」と呼んでいるが、自分たちの取材をハイヤーで行いながら、公務員のカラオケタクシーを厳しく批判する「朝日新聞戦後民主主義」の悪しき欺瞞(ぎまん)と呼んでもいい。

おなじ大前研一のコラムによると、日本の大卒者の就職内定率92%は、世界のなかでも際立って高いそうだ。

お隣の中国では大卒者の就業率は70%だし、イギリスに至っては30%である。日本だけが際立って高い。これは成長期以来の大学卒業即就職、という右肩上がりの歴史的偶然に過ぎない。

今、世界経済を牽引している中国でさえ70%なのである。
でも、そういわれても、私たちの心の中に、
「大学を卒業したんだから就職できて当然だ、できないとしたら政府が悪い」
という思いが浮かばないだろうか。
もし、そういう思いが浮かんだとしたら、その思いが論理的整合性があるかどうか、また、倫理的に妥当かどうか再考してみるといいだろう。論理的にも倫理的にも何の根拠もないことがわかるはずだ。
本来自分で努力しなければどうしようもないことを、他人のせいにして、苦情をいえばなんとかなるというモンスター心理が目立つのは、長く長く続いた高度成長とバラマキ社会のゆがみがようやく隠しきれなくなってきたということなのかもしれない。