国母和宏と小沢一郎

 昨日、たまたまふれたふたりの消息が耳に入った。
 まあ、小沢一郎の方は、毎日のように報道されているのだから当たり前。ネットの動画サイトで、例の尖閣の件で、中国人船長を釈放したのは、菅政権だと、爆弾発言だとすれば、かなり火薬がしめった感のある発言をしたそうだ。
 これが、彼の言う「一兵卒」なら、逃亡兵だな。
 考えてみると、小沢一郎という人の行動原理は、いつも、私怨にすぎなかった。郵政民営化をつぶしたのは、小泉純一郎に対する腹いせだし、経済財政諮問会議を廃止したのは、故・橋本龍太郎への意趣返しだろう。
 歴史的な政権交代の直後に、まず手をつけたことが、そうした私的なうらみつらみだったことが、結局その後の迷走につながっているように思う。
 今回の発言は、いうまでもなく、菅直人への嫌がらせだ。
 小沢一郎を評するには、「器が小さい」だけでなく、もう一つ、古い言葉を引っ張り出さなければならないみたい、「こころざしが低い」という。
 国母和宏については、週刊文春の年末号に小さな記事があった。
 今は、アメリカで、プロのスノーボーダーとして活躍しているそうだ。
 文春の取材にアメリカからのメールで
 「自分の中で無念とか、オリンピックに対するマイナスな気持ちは全くないです。今回、五輪という場で表現できたことは、すごい、自分にとってプラスになったし、まわりでサポートしてくれる人たちも増えました。・・・」
 古い言葉ついでにいうと、「こころざしが人を作る」ということは、やはりあるかなと思う。
 前にも書いたかどうかわからないけれど、時間を、過去、今、未来に分けると、過去はもうなく、未来はまだない。今という時は、過去と未来という‘不在’がせめぎ合う一瞬として‘ある’にすぎない。
 だとしたら、それが誇らしい履歴でも、過去に自己を投げかけている人の今は腐っているのではないか。逆に、過去が挫折にまみれていたとしても、未来に自分を賭けている人の今は輝いているのではないか。
 私はそう思っているし、そう思って生きていきたいと思う。未来が人を定義すると。