『耄碌寸前』

耄碌寸前 (大人の本棚)

耄碌寸前 (大人の本棚)

 耄碌寸前。別に狙ったわけじゃないけど、なんとなく、この国にも、私にも、今年の読書はじめにふさわしいタイトルになってしまった。
 森鴎外の嫡男、森於莵のエッセー集。
 先日、デューラーを見にいった、地下鉄の駅の案内板に、「森鴎外旧居跡」の文字をみつけた。それが、観潮楼なのかどうかちょっとわからないが、このエッセーに書かれた観潮楼の末路は迫力があった。
 森鴎外には、若いころずいぶんはまった。同じ本を読み返すことは滅多にないのだけれど、「渋江抽斎」は二度は読んだ。
 鴎外のように、漢籍の深い教養もあり、長い渡欧経験もあり、軍医として社会の成功者としての視界も持ち、また、嫁姑の不和に悩む、家庭人としての視野も持っている、という場合、日本という社会は、どのように見えていたのだろうかと、つい、思いを馳せてしまう。
 森於莵の、どこか達観しつつ、軽い諧謔を感じさせる文章を読んでいて、鴎外が晩年に書いた「空車(むなぐるま)」を思いうかべた。
 青空文庫にあったので、ちょっと引用する。

 わたくしの意中の車は大いなる荷車である。その構造はきわめて原始的で、大八車というものに似ている。ただ大きさがこれに数倍している。大八車は人が挽くのにこの車は馬が挽く。  

 この車だっていつも空虚でないことは、言をまたない。わたくしは白山の通りで、この車が洋紙を載(きんさい)して王子から来るのにあうことがある。しかしそういうときにはこの車はわたくしの目にとまらない。  

 わたくしはこの車が空車として行くにあうごとに、目迎えてこれを送ることを禁じ得ない。車はすでに大きい。そしてそれが空虚であるがゆえに、人をしていっそうその大きさを覚えしむる。この大きい車が大道せましと行く。これにつないである馬は骨格がたくましく、栄養がいい。それが車につながれたのを忘れたように、ゆるやかに行く。馬の口を取っている男は背の直い大男である。それが肥えた馬、大きい車の霊ででもあるように、大股(おおまた)に行く。この男は左顧右眄(さこうべん)することをなさない。物にあって一歩をゆるくすることもなさず、一歩を急にすることをもなさない。旁若無人(ぼうじゃくぶじん)という語はこの男のために作られたかと疑われる。  

 この車にあえば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。隊伍(たいご)をなした士卒も避ける。送葬の行列も避ける。この車の軌道を横たわるに会えば、電車の車掌といえども、車をとめて、忍んでその過ぐるを待たざることを得ない。  

 そしてこの車は一の空車に過ぎぬのである。  

 わたくしはこの空車の行くにあうごとに、目迎えてこれを送ることを禁じ得ない。わたくしはこの空車が何物をかのせて行けばよいなどとは、かけても思わない。わたくしがこの空車とある物をのせた車とを比較して、優劣を論ぜようなどと思わぬこともまた言をまたない。たといそのある物がいかに貴き物であるにもせよ。

 森鴎外の心をとらえた、この重厚で、力強く、しかし、何の荷も積んでいない‘空車’は、近代日本最高の文化人の心象風景として、なにか痛々しい。
 東洋の教養はすでに廃れ、西洋の文化は永遠に根付きそうにない明治の日本にあって、その両方を兼ね備えていた鴎外の、その鴎外的な孤立、社会からの断絶が、結局、21世紀の今でも、この国の問題の本質であるような気がする。
 東洋と西洋の葛藤が切実だったのは、鴎外や漱石の世代にとってこそだったと思う。
 その後の世代の文化人は、東洋的な教養というほどのものはおそらくもたないだろう。彼らにとっては、東洋は、今の私たちと同じく、エキゾティズムにすぎなかっただろうのに、一方で、彼らが依拠している西洋の教養が、お粗末な借り物にすぎないことこそ、この国の滑稽と悲惨のほぼすべてのように思える。
 芥川龍之介の「歯車」には、こんな一節もある。

 僕はこの本を手にしたまま、ふといつかペン・ネエムに用ひた「寿陵余子(じゆりようよし)」と云ふ言葉を思ひ出した。それは邯鄲(かんたん)の歩みを学ばないうちに寿陵の歩みを忘れてしまひ、蛇行匍匐(だかうほふく)して帰郷したと云ふ「韓非子(かんぴし)」中の青年だつた。

 今日の僕は誰の目にも「寿陵余子」であるのに違ひなかつた。

 これが、小林秀雄の世代までくだると、「漱石なんて何が面白いかわからない」みたいなことを言い始める。
 鴎外は、何も積んでいない‘空車(むなぐるま)’だが、後の世代は、まがいものの骨董を積んで、拡声器で日本文化を連呼するレンタカーだ。
 そういうキッチュに、すくなくとも自覚的ですらないとすれば、悲惨を超えて滑稽だし、ちょっと鼻で笑う気持ちになるのも、そんなに不遜なこととも思えないのだけれど、どうだろうか。