『音楽嗜好症』

音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々

音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々

 風邪の治りきらない身としては、この冬一番の寒波と、インフルエンザの猛威に恐れをなして、今日いちにちを引きこもって過ごした。
 オリバー・サックスの『音楽嗜好症』を読み終えた。
 豊富な臨床例と研究から、脳と音楽の関係を考察している。 特に、感動的だったのは、
 第三部 「記憶、行動、そして音楽」第15章 「瞬間を生きる ー 音楽と記憶喪失」
 著名な音楽家で音楽学者でもあるクライヴ・ウェアリングは、ヘルペス脳炎のため、数秒しか記憶がもたなくなってしまう。しかも、重い逆行性健忘で、ほとんどすべての記憶も失ってしまった。
 まるで、小川洋子の『博士の愛した数式』を実在化させたような話だが、介護施設のスタッフが、クライヴの「死」と呼んでいる発作的な絶望の独白には、実話の迫力がある。
「今、意識が戻った・・・人間を見るのは・・・30年ぶりだ・・・死んでいたも同然だ!」
 にもかかわらず、彼は譜面を読んで、それを生業としていた昔とほとんど同じように、ピアノを弾くことができる。
 楽器ができない私には、奇跡としか思えない。なぜなら、数秒しか記憶か持たないなら、どうやって10分、30分と続く曲を、破綻なく弾きおおせることができるのだろうか。
 その脳のメカニズムは、まだよくわかっていないようだが、ひとつには、ピアノを弾くことは、ひげを剃る、とか、服を着る、とかの記憶、手続き記憶といわれる記憶に分類されるからではないかと書いている。
 そして、もうひとつは、音楽にとっての時間とは何かというかなり本質的な問いに関わっていると思う。
 クライヴの例は、時間芸術と呼ばれる音楽が、時間を必要としているのでなく、実は、時間を支配しているのではないかという仮説をたてさせる。

 記憶喪失のせいで出来事を記憶したり予想したりすることができないクライヴが、音楽を歌い、演奏し、指揮することができるのは、音楽の記憶がごく普通の記憶ではないからだ、音楽を思い出す、聴く、奏でることは、完全に今現在にある。
 音楽学者のヴィクトル・ツカーカンドルは著書『音とシンボル』でこのパラドクスを見事に探求している。 
 ‘メロディーを聞くとは、メロディーとともに聞くことである。・・・その瞬間にある音が意識を完全に満たすこと、何も思い起こさないこと、その音以外は意識に何もないこと、それがメロディーを聞くことの条件でさえある。・・・メロディーを聞くとは、聞く、聞こえた、聞こうとしている、のすべてが同時に起こることだ。どんなメロディーも「過去は思い出さなくてもそこにあり、未来は予想しなくてもそこにある」と宣言している。’

 時間という、4つ目の次元について、私たちが完全に理解しているとはとうてい言い切れないだろう。多くの場合、私たちは時間を空間に置き換えて理解している。私たちは、音楽を通してのみ、時間にアクセスできるのかもしれない。
 また、クライヴにとってもう一つの奇跡は、奥さんのデボラのことを忘れないことだ。感情の記憶は他の記憶よりもずっと強い。
 デボラ・ウェアリングはこのことを書いた本も出版している。

七秒しか記憶がもたない男 脳損傷から奇跡の回復を遂げるまで

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