「英国王のスピーチ」

knockeye2011-02-28

 TOHOシネマズで、今日公開の「英国王のスピーチ」を見てきた。
 ジョージ6世を演じる、コリン・ファースの、すべてがすばらしい。
 もし、この映画がアカデミー賞を獲るとしたら(獲ってほしいと思っているのだが)、「スラムドッグ$ミリオネア」から、時をおかずに、また、イギリス映画なわけだから、イギリス映画の復権は、めざましいのではないだろうか。
 と、ここまで書いたのが土曜日で、さっきニュースを見ていたら、「英国王のスピーチ」が、アカデミー賞、作品賞、主演男優賞、監督賞、脚本賞を受賞した。とるでしょう、そりゃね。
 ‘あらすじに触れるわけにはいかないけれど・・・’とか、このブログで映画を紹介するとき、何度も書いてきたが、この映画のあらすじは、1行で事足りてしまう。
 吃音の王が、一所懸命に国民に語りかけました、と、それだけ。
 主人公の、努力と友情と家族愛という意味では、英国王室版「ロッキー」ともいえる。
 しかし、シンプルなストーリーほど、大きな河と似ていて、広い河畔林があり、遠い水源があり、流れ出るさまざな支流があり、そのすべてを伝えようとすると、実はとても難しい。
 この映画では、たとえば、家族、伝統、友情、国民への責任、自分自身との葛藤、そういうことが、ほぼすべての場面で、重層的に伝わってくる。シンプルな主旋律に重なる、それらの和音が変化に富んでいて、観客を飽きさせないどころか、ほとんど、時がたつのを忘れさせてしまう。
 ラストエピソードで、満員の映画館のあちこちから忍び泣く声が聞こえたのは、日頃、私たちが目にしている、政治家たちのなさけなさが、身につまされてのこともあったのではないか、とは、うがちすぎだろうか。
 イギリスという国は、わたしたちを、どこか懐かしい気持ちにさせる。
 もしかしたら、戦前の日本人のなかには、日本はイギリスによく似ている、と思っていた人も多かったかもしれないし、明治の天皇制も、イギリスに範をとっていれば、民主主義と齟齬を来すことなく、国民の誇りに傷付けることもなく、現代に存続していたかもしれない。
 統帥権をめぐる明治憲法の矛盾が、軍官僚の暴走を招いたとしても、そうした官僚のこざかしさを、制御できなかった、政治と報道の無責任こそ、本質的な問題だった。
 もし、イギリス人がこの映画を見て、ジョージ6世の時代に思いをはせるとしても、私たちは、官僚が功名心に走って、国を滅ぼしたことを思い出すしかない。その上、情けないことに、官僚の暴走を政治家が止められず、右往左往している姿は、21世紀になった今でも、まったく変わっていない。
 右翼とか左翼とか、新自由主義とか格差社会とか、政治と金とか、本質から目をそらすための話題としか、わたしには思えない。
 ラストエピソードの重要なバイプレーヤーは、国王のスピーチに、はらはらしながら耳を傾けている多くの国民であったことは、いっておかなければならない。権威は、結局信頼に支えられている。そして、一方通行の信頼もありえない。
 信頼は、約束を守ることでしか生まれない。信念を表明することが約束なのだし、その約束を守ることは、信念を実行することなのだから、それをしない人間が信頼を得られないのは、べつに政治家でなくても当然じゃないかと思う。
 映画に出てこない政治家の話はやめて、映画に出てくるヒトラーの話をする。
 ワーグナーを参考にしたといわれる、ヒトラーの演説のうまさは、当時から有名だったろう。
 自分の言葉で人を動かせると思っている男と、自分の言葉では人を動かせないと思っている男の言葉の対比は、いろいろな意味でとても印象的だった。