「私が愛した大統領」

knockeye2013-09-14

 14日。TOHOシネマズデー。「ウルヴァリン」は混んでるに違いないしなと、つらつら見ると、こないだ小林信彦が紹介していた「私が愛した大統領」がラインアップされているので、これを見にでかけた。BunkamuraとTOHOシネマズの両方で封切りはめずらしい。
 フランクリン・ルーズベルトについての映画なので、アメリカ映画と思っていたら、これも(というのは「ジンジャーの朝」にひきつづき)イギリス映画だった。
 日本で洋画を見る場合、いつも立ちはだかる問題は‘邦題是か非か’ということで、この原題は‘Hyde Park on Hudson’で、「ヒデが公園でスーファミ」という意味ではないらしく、「ハドソン川沿いのハイドパーク」つうことらしい。ハイドパークといえば、イギリス人でなくてもふつうはロンドンのハイドパークを思い浮かべる。‘ハドソン川じゃなくてテムズ川じゃないの?’って、そういう原題のひねりが、この邦題だとなくなっちゃうので、「ハドソン川のハイドパークって何なんだろう?」と思いながら、この映画を見始めるのと、「私が愛した大統領」って、なんか「王様と私」みたいな,イメージを持ちつつ見始めるのとでは、映画の味わいがちょっと変わっちゃうわけ。
 ハドソン川のハイドパークには、フランクリン・ルーズベルトの実家があって、今でも保存されているそう。そこに、史上初めて訪米した英国王、映画「英国王のスピーチ」のジョージ6世がやってくる。若い国アメリカの老獪なルーズベルトと、伝統の国イギリスの若い国王の対比が、この映画を映画として成立させているポイントだと思う。
 脚本家のリチャード・ネルソンは、この映画には、フランクリン・ルーズベルトをめぐって、ディジーとの情事と、英国王夫妻の訪問、という二つの物語があって、その二つの物語が絡み合っていると書いている。
 サイテーの女たらしという‘裏側’を思い知らされることになる,デイジーにとっては傷であったり、亀裂であったりするその一夜が、ジョージ6世にとっては、修復であったり希望であったりする、そのコントラスト。
 デイジーと大統領との恋愛関係は、英国王夫妻とのコントラストで描かれるべきだったし、実際、そう描かれているんだけど、デイジーは「私が愛した大統領」の‘私’、この映画の語り手でもあるので、その対比がそんなにビシッとは決まらなかったかも。
 晩餐会の夜のすったもんだにもうちょっとリズム感があったらなぁとそんな感じ。桂枝雀のいう‘緊張と緩和’でいえば、フランクリン・ルーズベルトが,女関係でもめている,その緊張が最高潮に達したところで、すっと英国王夫妻の視点が入るっていうその緩和のためには、もめ方がちょっと長かったんじゃないかみたいな。
 よくある男女のいざこざなんだけど、それをイギリス国王夫妻が二階で寝ている,その真下でやってるっていう,そのおかしさがもうひと味って感じかな。もう一工夫ほしかった。
 それがうまくいってると、後のホットドッグのエピソードとうまく共鳴し合ったはず。でも、あれはあれで、じゅうぶんうまくいってるという人もいると思う。高望みしすぎかもしれない。
 監督のロジャー・ミッシェルは、このハイドパークでの週末は、戦争勃発の12週間前であり、ルーズベルトジョージ6世に差し出したホットドッグは、まさに歴史の分岐点であり、的確な言葉だったと書いている。今の政治家はこうした意味での言葉が貧弱なのだろう。
 フランクリン・ルーズベルトをめぐる奥さんと秘書と‘私’の三人の女性がそれぞれ魅力的で面白かった。特に、奥さんのエレノアは、‘家具を作っているレズビアンと同棲している’って(?)、エリザベス王妃ならずとも、ちょっとつっこみたくなるところだろう。
 節度ある大人の話で、同じ時期に、軍の暴走を追認するだけの子供じみた政治家しかもてなかった日本人としては、ほろ苦い思いもするけれど。