日中韓100年戦争

knockeye2013-09-13

 ちょっと笑っているのだが、今月の文藝春秋の大見出しは「日中韓百年戦争」で、座談会ではあるけれど、そのなかで、従軍慰安婦の強制連行の証拠はないと書いてある。
 それから、週刊ポストの今週号は、ソウル大学の名誉教授の証言を掲載して、「慰安婦強制連行はなかった」という見出しで表紙を飾っている。
 日本のマスコミがこぞって橋下徹バッシングをくりひろげたのは、まだことしの5月。それからまだ4ヶ月とたってないが、じゃあ、あれは何だったのか?。
 慰安婦の事実があるかないかも、さじ加減ひとつと、マスコミが考えているのは明白だが、事実を正確に伝えるべき、本来の使命を蔑ろに、こうした世論操作で権力を誇示しているマスコミの実態が、国際的な視線に晒される、この慰安婦問題は、その転換点になったかもしれない。つまり、日本のマスコミを称する「マスゴミ」という言葉は世界共通語になるかもしれない。
 今回の文藝春秋の記事にくらべれば、橋下徹の発言ははるかにマイルドで、むしろ、リベラルといってもよいくらいだ。
 「銃弾が雨嵐のごとく飛び交うなかで、命賭けて、そこを走ってゆくときにね、猛者集団といいますか、精神的にも高ぶっているようなそういう集団、やっぱりどこかでね、まあ、休息じゃないけれども、そういうことをさせてあげようと思ったら、慰安婦制度というのは必要なのは、これは誰だって分かるわけです」
 と、この部分だけが取りあげられて批判されたわけだが、発言の主旨は、‘加害者’‘被害者’の立場を限定して論じ合うのではなく、証拠に基づいて法的に決着をつけましょうということだったと、第一報でも、私にはそう聞こえた。
 これは、橋下徹の世代の政治家が、慰安婦問題に決着をつけようとすれば、当然取るべき態度の一つであるだろうと思う。バッシングするような問題は何もないと思う。
 実際、河野談話でさえ、強制連行の証拠はないとしている。にもかかわらず、謝罪だかなんだかわからない、中途半端な対応をした。橋下徹のとった態度は、それよりは、ずっと未来志向だったと私は思う。
 わたしは橋下徹よりは歳だが、それでも、慰安婦について断定的にものが言える何ものも手にしていない。だから、私は、今、目に見えるものだけについてしか語るつもりはない。事の発端は、朝日新聞社が、橋下徹に意趣返しをしたにすぎなかった。他のメディアがそれに追随したのは、それがポピュリズムというもので、それ以上の理由はない。
 強制連行の証拠は何もない。あるのは証言だけ。「本人が言ってるんだから間違いない」は、ギャグとしても古い。今、目に見える事実は、韓国がこの問題を政治的なプロパガンダに利用しているという事実だけだ。
 わたしは他の日本人のように純朴ではないので、韓国のおばあさんたち、かわいそうと、単純には思わない。なぜ、彼女らは1991年に突然名乗り出たのか?、なぜ、橋下徹との面談を突然キャンセルしたのか?、は、今後も疑問として残り続けるだろう。
 しかし、そのような不毛な議論より、もっとも重要なことは、太平洋戦争の過ちについて、わたしたち自身の手で、つまり、わたしたち自身が政治を動かして、その罪を総括し、反省していないということに尽きる。
 最大の問題は、野口悠紀雄が『1940年体制』で指摘したように、また、安倍総理のお祖父さん、岸信介A級戦犯でありながら、あっさり首相の座に復帰したように、わたしたちの国では、戦前と今と,支配階層が連続している。したがって、今の国民の大部分は、韓国に対して何の差別感情ももっていないにもかかわらず、それが政治に反映しない。ヘイトスピーチが放置されるなどは、国民の道徳感情と一致しない。
 慰安婦の強制連行は、ほぼ作り話で証拠がないが、関東大震災の時の朝鮮人虐殺は史実だし、戦前、日本の企業が朝鮮人を強制徴用して働かせていたことも事実だ。だから、わたしたちはこうした差別が日本にあったことを忘れてはならないし、二度とこのようなことがないようにしなければならない。しかし、やったかどうかわからないことについてまで謝罪は、それはまた別の差別にすぎない。
 朝日新聞社が、従軍慰安婦に関して、ほとんどでっちあげすれすれのようなマネまでして、これを断罪したがるのはなぜかは興味深い。というのは、朝日新聞は、戦時中、声高に戦意高揚に務めたメディアだからだ。もし、人民裁判的な断罪が行われていたら、戦後、朝日新聞は存続できなかったはずである。
 大前研一は、日本のマスコミを、「大衆迎合の高見の見物」と評したが、その「高見の見物」の裏には、大衆を煽動して架空の罪を断罪することで、自分たちの罪については、免罪符を手にしたいという心理が働いているように見える。たとえていえば、大火が自分の家に向かわないように、風向きが他の家に向かうのを願う心理。彼らにとって、高見のやぐらが燃え落ちるほど恐ろしい想像もないだろうから。
 従軍慰安婦の側に立っている多くの人たちもこの心理であるように私には見えている。自分のではない罪を断罪するのは容易である、事実を見きわめるのにくらべれば。
 私自身が、今のところ、この問題についてとっている仮の結論は、要するに、当時の軍が、戦地に売春宿を設けさせた。で、この議論でしか用いられない言葉‘広義の強制性’については、当時の売春宿はみんなそんなもんだった、まして、戦地に於いてをや。
 この問題は,イメージで語られすぎている。事実を冷静に議論していくと、問題の核は、当時の娼婦がおかれた境遇の苛酷さにしかたどりつかない。戦争との関わりは希薄だと思う。