『リスペクト』

 この映画でアレサ・フランクリンを演じているジェニファー・ハドソンが『ドリームガールズ』で鮮烈なデビューを果たしたのは2006年のことだそう。こういうことを言っても誰も得しないんだが、あの時は確かに主役のビヨンセを食っていた。記憶では、名前のクレジットも特別だった。
 しかし、だからと言って、そのまま、それこそアレサ・フランクリンのような大スターに上り詰めたかというと、当然ながらそうではなかった。それはすべての芸能に通じるのではないか。日本で例えれば、霜降り明星がスタートダッシュで飛び出したけれども、そのあと、ニューヨークやマヂカルラブリーに抜き返されるみたいなことはやはりある。
 アレサ・フランクリンがなかなかヒットが出ずに苦労する、ニューヨークに出たばかりの頃のエピソードは、だから、ジェニファー・ハドソンと重なるところもあるような気がした。
 今回のジェニファー・ハドソンのアレサ役は、アレサ・フランクリン自身が彼女を指定していたと公式サイトにあった。アレサ・フランクリンの半生を綴った伝記としても、ジェニファー・ハドソンのギグとしても、どちらからも楽しめる。というより、どちらにも、引っ張らられる緊張感がある。そうでないと、たとえば、「歌のとこは口パクで、アレサ・フランクリンの歌を入れとけばいいや」って作り方だったら、魅力は半減してただろう。
 『JUDY』を思い出してみるとわかりやすいんじゃないか。ジュディ・ガーランドの伝記映画ではあるんだけれども、ジュディ・ガーランドを演じたレネー・ゼルヴィガーを、観客はやはり観ている。レネー・ゼルヴィガー自身のパフォーマンスでなければ、あんなに受けなかっただろうと思う。ジュディ・ガーランドのドキュメンタリーとはやはり違う。
 監督も黒人女性のリーズル・トミーという南アメリカの人だそうで、そのせいか、アフリカ系アメリカ人の心理の動きがものすごく微細にリアルに感じられた。フォレスト・ウィテカーが、アレサ・フランクリンの父のCL・フランクリン師を演じているのだけれども、ニューヨークのプロデューサー、ジョン・ハモンドにアレサを紹介する会話の、微妙にズレた感じ。とか、アレサの最初の旦那さんのテッド・ホワイトが、怒りの発作に囚われる、その感じ。どうしようもない男の弱さの根っこに、100年以上積み重なった被差別の歴史を、この監督が読み取っている、読みの深さを感じさせた。
 『マレイニーのブラックボトム』は、ホントはこういう風に描かれるべきじゃなかったのかと思いさえした。映画の『マレイニーのブラックボトム』の黒人ミュージシャンたちは、ホントに黒人が演じているにもかかわらず、まるでミンストレルのような印象を私は受けてしまった。「ブラック・ミンストレル」というのが実際にもあったそうだ。
 もしかしたら、アメリカ人の監督だと、手癖として描いてしまうのかもしれない「黒人」というサインが一切なく、被差別の歴史が人の心に刻んだ傷と、そこから抜け出そうとするあがきとして描かれているのが新鮮に思われた。日本語の字幕では「虫」と訳されていた、心に巣食う何かが顔を出してしまうその個人としての現実が、同時に歴史が刻んだ傷でもあるというその描写は、もしかしたら日本人だからよくわかるのかもしれないとふと思いもした。
 アレサ・フランクリンといえば、1972年に撮影されたゴスペルのライブ映画『アメイジング・グレイス』が、49年ぶりに公開されたばかりだが、あの冒頭の部分が『ボヘミアン・ラプソディ』ばりに忠実に再現されていた。たぶんあれも一緒に観るとさらに味わい深いだろう。
 「リスペクト」というタイトルはアレサ・フランクリンの楽曲のタイトルから取られている。ジェニファー・ハドソンによるサントラ盤ももちろん発売される。この選曲も素晴らしく、字幕に訳された歌詞を読んでいると、まるでアレサ・フランクリン伝という歌劇のために書き下ろされたのかと思うほど私小説的であることに気付かされる。それは曲だけ聞いていては気づかなかったことだと思う。

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