仕事を昼までに片付けて、横浜ブルグ13に「レイルウェイ 運命の旅路」を観にいった。原題は、‘The Railway Man’で、この原題を頭の片隅にとどめておいた方がテーマを見失わずに済むと思う。
コリン・ファース、ニコール・キッドマン、真田広之、と日英豪の名優が共演しているのに、上映館が少ないのではないかと不満に思った。
コリン・ファースは、「英国王のスピーチ」の時よりも素晴らしいし、真田広之は、おそらく海外に進出してからの仕事としてはベストアクトだったのではないかと思う、「最終目的地」を見逃したので、確言できないけれど。
思えば、たとえば「ティファニーで朝食を」の‘ユニオシ’氏以来、海外の映画で描かれる日本人が、日本人にとって、すくなくとも日本人らしいと思えることはほとんどなかった。つい去年の「フィルス」でさえ、例によって、芸者、フジヤマ、でないにせよ、せいぜい、スシ、カラテ、くらいのこと。
ましてや、個性を持ち合わせている日本人となると、「硫黄島からの手紙」の渡辺謙くらいだったと思うのだ。
しかし、今回の映画は「硫黄島からの手紙」を軽く凌駕している。
日本が、政治や経済の表舞台から退場しようとし、アジアの他の国々が興隆し始める今になって、すぎさった近代を西洋諸国と共有した、日本という東洋の国の複雑さが、ようやくふりかえり観られているのかもしれない。
原作は、『泰緬鉄道 癒される時を求めて』というエリック・ローマクスの自叙伝で、実話なのだし、そして、物語の結末はたぶん多くの観客にとって予測できるものに違いないのに、ストイックなストーリーテリングのみごとさに没頭した。過剰なものも不足なものもない。妥協もない。そこに、ひとりの日本人と、ひとりの英国人がいる。
エディプス王が最後に自分の目をくりぬいて立ち去ると知っていながら、その悲劇をはらはらとしながら観劇した古代ギリシャの観客のように、この映画で描かれた出来事の結末を、たとえ知っていたとしても、誰もが息を詰めて、その成り行きから目をそらすことができないだろう。
これが実話であることには、いわゆる偉人伝のような、教訓的な要素はない。
これとまったく逆の結末もありえたわけだし、むしろ、その方がはるかに理解しやすい。しかし、事実はこうだったというそのことに、私は謎を、といかけを、観ていたいと思う。これが人間なんだよとか、これがほんとなんだよ、というような理解に着地したくない。
そしてなにより、コリン・ファースと真田広之の演技が、そんな安易な理解や解釈を許さない。
凡庸な映画なら、一度目の再会で終わっただろうと思う。しかし、二度目の再会まで描くつもりだと知って、どうやって描くのかと固唾をのんだ。アキレスが亀を追い越す瞬間、事実が論理をまたぐ瞬間を、このふたりの俳優がどう演じるのか。
そして、驚嘆した。