去年の夏はいったんコロナが収まりかけていたと記憶している。それが冬になってまた感染者数が増え始めたのだった。今年は、この猛暑にもかかわらず、この感染者数の増加は、いったいこの冬はどうなることだろうかと、今から危ぶまれる。
そんなわけで、あまり遠出もはばかられるのと、あつぎのえいがかんkikiと新百合ヶ丘のアルテリオ映像館が、わりと私の好みにあった映画をかけてくれるので、そちらに足が向きがちになる。ただ、どうしても作品公開から日時が経っていることが多くなり、待ち遠しい思いをすることになるのだが、『夕霧花園』は、渋谷のユーロスペースとほとんど同時に公開されているようだ。
このフライヤーを見ると、阿部寛がいるし、いったい何の映画なんだろうと戸惑うのだが、そういう無国籍な感覚はむしろ正しくて、原作はマレーシアの作家タン・トゥアンエンの小説でブッカー賞にもノミネートされた「The Garden of Evening Mist」。監督は台湾のトム・リン(林書宇)。ヒロインのテオ・ユンリンは、1950年代をマレーシア出身の女優リー・シンジエ、1980年代を台湾出身のシルヴィア・チャンが演じている。そして、日本人の作庭家、中村有朋に阿部寛。ほかにも、『クレイジー・リッチ!』でヒロインの母を演じたシンガポールのタン・ケン・ファ。ジョン・ハナー、ジュリアン・サンズといったイギリスの名優も重要な役で出ている。また、製作は『パラサイト』のCJエンターテイメントだったりする。
こういう多国籍な感じが、マレーシアの歴史背景とうまく合致しているので違和感が生じないのだろう。外国映画のなかの日本人はなぜか日本人らしく見えないと言われたものだった。真田広之以後はそうでもないかもしれないが、ともかく、この映画の阿部寛は、彼自身の役作りもあってまったく日本映画の阿部寛と変わらない。多少の違和感は、映画の後半で謎解きがされることになる。
阿部寛の演じる謎めいた作庭家中村有朋は、超然として見えても、かつて日本軍が支配した旧属領に居残っている敗戦国の男なのだから、庭園や入れ墨といった日本文化を背景にしながら、これは日本版の『ブルーム・オブ・イエスタディ』のような恋愛映画になるのかなと思いながら観ていた。ところが、それが、もちろん恋愛映画には違いないのだけれども、途中から急展開するのに驚いた。この原作小説がブッカー賞の候補になるのも納得。いかにもイギリス人好みらしい、19世紀的な本格小説の香りを漂わせ始める。
元皇室付きの作庭家という設定もあり、いかにも千利休めいた日本の文化人のステレオタイプ的な人物設定なのかなと思っていた、というか、たぶん、外国映画での日本人の扱われ方に慣れきってしまった観客は、無意識にそういう風にとってしまう、そのことまで計算に入れたシナリオなのは明らかで、これはひさしぶりにやられた。阿部寛のあの役作りは、ステレオタイプどころか全くパーソナルな感情表現だったことがわかる。
それがわかってしまうと「あれ、これは日本人以外にもわかる感情なのか?」とか、それまでと真逆なことを考えてしまっている。まるで、カズオ・イシグロの『日の名残り』の読後感のような、日本的なのかイギリス的なのか分からなくなってくらくらするような。あのつつましいが激しい恋愛感情を思い出してしまう。
『日の名残り』はそれこそブッカー賞受賞作品なので、そういえば、心のどこかで『日の名残り』を思い出していたのかもしれない。あの主人公もまた、間接的に、戦争に責任があると感じずにはいられない立場の男だった。彼自身はイギリス人だから戦勝国の男なんだが、彼が仕えていた主人が対独協力者の汚名を着せられてしまったのだった。旅の途中で一夜の宿を借りるのが、ダンケルクで戦死した兄弟の部屋だという描写がある。
それが恋愛と何か関係がありますか?って聞かれれば、一夜の関係ということならもちろん関係ない。しかし、主人公が感じているパッションははっきりとそれではない。
自分自身が手を汚していないとはいえ、その国に仕えていた自分が、感情の深い部分で無関係だと割り切れるかということなのである。敗戦国の、ある男の愛国心が真摯であったとするならば、その熱情と恋愛は別腹だと割り切れるものなのかという悩みは、平時に愛国をもてあそんでいるみみっちい自己愛とは天と地ほどちがう。
ヒロインのユンリンの痛みを中村有朋はもちろんよく理解している。しかし、彼自身の痛みが彼女の痛みと交わらないことも知っていて、そしてそれを打ち明ける相手もいない。だからこそ、あの入れ墨が必要だった。これはかなりのネタバレになっている。まだ観ていない人はここは読まない方がいいだろう。
この映画は、2020年の大阪アジアン映画祭オープニング上映後、客席から拍手が巻き起こったということだ。謎解きがただの推理ドラマのそれではなく、30年来の恋愛の謎解きにもなっている、ラストに向かっての加速感はただものではないと思った。
『夕霧花園』という『春江水暖』を連想させるタイトルもあり、延々とつながる茶畑の美しい光景もあり、なんとなく大河のようなゆったりとした叙事詩を思い描いていたので、後半の急展開にはほんとうに驚いた。これは観ないと損だと思う。
以下、トム・リン監督のインタビュー。↓
以下、予告編。↓